1日と一生、そう違いはないでしょう。と、簡単に書き出したのは「気がつけば今日も終わり前1時間だ」ということと、「気がつけばもう人生も24分の23経っている、残りは1時間分だ」と思ったのです。
とはいえ、何をもって1時間分なのか、それが問題ですがそれはさて置いて、今日の話です。午前中10月30日の「神武寺を知ろう」に向けての小冊子作り、編集会議的な時間を過ごしそのあと逗子の図書館に詰めっきりになって夜8時近くまで、ここは誠にありがたい所で、勉強机と大本棚がある自由に使ってと置かれているのです。
午前中編集で話に何回も出た『新編 相模国風土記稿』をはじめ『逗子市史』全巻もあって、もっと早目に目を通しておくべきだったと思いつつ時間を机にひろげて拾い読みをしてきました。そして帰宅、昼飯は抜きで煎餅をかじっただけでしたので飯のうまいこと、腹も満足頭も満足の状態で「逗子の神武寺も大事だが、ここは葉山の一色だ、それが大事なんだ!」と気を方向転換して黒田先生の書き残してくれたものを読みだしていたら、「今日も終わり前1時間」になっていたのでした。
祭そのものの執行に関わる若い世代は頼もしい限りですが、それと共に祭の郷土性とか文化面での理解とか、受け継ぎ伝えていくべきことは独自に働きかけていかねば伝わっていきません。そこには意識性が欠かせない筈です、そこをどう作り繋げていくか、課題です。
そんなことを考ええていたらこのブログの一年前が飛び込んできました。
やはり意識性というのは周期性と一体になっているようです、繰り返しやってくることで意識性が維持される。それを「一色森山神社」でどう具体的にするか、相談相手が一二浮かんできましたので、あとは夢のなかにしましょう。