10月30日の逗子の「神武寺を知ろう」、
に向けての準備のひとつに小冊子作りがすすんでいます。
今日の午前中はその集まりで、小冊子の第1稿の検討でした。
そのなかに北条氏規(うじのり)に関係する部分があり氏規を通じて、逗子の神武寺や沼間地域が「真田丸」から沼田とか強いて言えば上田にも繋げられると思い歴史の記憶として面白いと感じたわけです。
北条氏規は「真田丸」で高嶋政伸さんが怪演した北条氏政の弟で当主・氏直の叔父にあたる人です。この氏規について『新稿 三浦半島通史』に
【 三浦半島では北条一門の氏規が、三崎を守備していた。氏規から自分の家臣に、(天正)十八年(1590)正月、次のような陣触れを出した。「われわれの被官(家臣)は、皆三崎あるいは小田原城へ移動することになったので、妻子・郎党と兵粮(ひょうろう)と荷物を城中に運び込み、小屋掛をして合戦の準備をせよ」とある。これを読めば、北条方は当初から籠城作戦だったことがわかる。
ところが、別の面では総力戦でもあった。天正十八年三月、三浦半島逗子(現逗子市内)の人びとに対し、「町人・諸商人・諸細工人に至るまで、あるいは弓・鑓(やり)、あるいは鉄砲・小旗以下の支度を致し」、命令次第に合戦をせよ、その働きにより褒美を取らすと公言した。この地域にこのような命令が出されたのは、あるいは、本当に商人や細工をする人びとが集住していたためかもしれない。】とあります。
さらに神武寺に関して別の箇所ですが、
【 他方、寺社も大きな影響を被った。天正十八年七月七日には、三浦半島北部の神武寺(現逗子市沼間)が合戦のために焼失し、薬師堂のみ残ったという。】とあります。
この氏規という武将は北條家では外交面を担当していたようです。(wikipedia参照)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北条氏規
関連のインターネット情報には氏規は秀吉に会い、秀吉に北條氏政か氏直を上洛させるためには「沼田領土問題の解決が必要」と話し、「真田丸」で前面に出てくる沼田城そこから名胡桃城事件の糸口をつくったとことが史実として紹介されています。
こうしてみると北條氏規という武将を通じて、逗子・神武寺が沼田・真田丸・上田とkaeruの頭のなかでつながるのは歴史の面白さというべきでしょう。