kaeruのつぶやき

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乱の内部構造

2018-01-02 20:22:00 | 『乱』と「西郷どん」

   「乱」、乱れるは要するに内部がグチャグチャになってしまうことです。明治維新150年というのは150年前に日本というアジアの小国内部がグチャグチャになって150年経ちましたということです、が……。

   それ以後も相変わらずグチャグチャしている日本を整理していきましょう、というのか現状の取り繕いの言い訳に使うか、自分たちの(アメリカさんの意向によって)利権を守る為の方便に使うのか、ということです。

   ですから乱の内部状況を知りたい、それも壊す側からでなく壊されたくない側、今までの利権を守りたい側の動きを知るのは、2018年という年だから面白いのです。

   前口上はこれだけにして、この写真から

   Wikipedia の池田長発ですが、スフィンクスの写真と同じものが、『乱』にも紹介されています。

   1864年4月4日、一行に同行していた岩松太郎という者の「航海日記」には「二十八日亥晴」とあるのは文久四年の二月二十八日を示しています。しかし、エジプトの砂漠からはるか離れた日本では元治元年二月二十八日と記されたことでしょう。この年の二月二十日に文久から元治に改元されていましたから。

   さて、綱淵謙錠は「この写真は、構図上から生まれる空間的な〈雄大さ〉だけでなく、世界最古・最大の遺跡が語りかけて来る時間の永遠相と、たまたま旅の道すがら立ち寄った日本武士団のもつ人生の偶然相とが、この一瞬に交錯し、この一枚に凝縮したことで、人類史的な〈雄大さ〉をも獲得した、といってよいだろう。」と記しています。

   池田筑後守一行は、文久三年十二月二十九日(1864年2月6日)横浜を離れ船の乗り換えなどを経て、この日(1864年4月4日)にカイロに着いたのですが、この日の記念撮影について綱淵の筆はこう書いています。

「日本出帆からこの日まで、一行はだれひとり〈横浜鎖港〉という自分たちの使命に疑問を抱く者もなく、全員はじめての海外旅行者としての珍談奇談を産み落としながら、明るく毎日を過ごして来たのであった。そう考えると、巨大な人面獅身像の前での記念撮影も、かれらの最も華やいでいた時期の〈記念〉として、重大な意味をもつということができよう。」

ではそういう毎日が暗転し、

「築後守が死を決して使節団幹部の秘密会議を招集し」……、

「だれ一人、それに反対する者はいなかった。」

  その日は1864年6月5日(元治元年五月二日)でした。その決断とは何かなど写真の頁の下の段に書かれています、長くなりますので明日に……。