『乱』は第1章「異人斬り」が文久三年九月二日(1864年10月14日)の井土ケ谷事件から書き出されています。それを糸口にして池田筑後守一行が遣欧使節団としてフランスに行く、昨日のスフィンクス前の一行の写真は旅の途中のことです。
この写真が紹介されている第2章「サムライとスフィンクス」には、池田筑後守一行が何故フランスへ行くことになったのかがこう書かれています。
【文久三年(1863)八月十八日の政変により、京都から過激攘夷派を一掃し、倒幕論を駆逐することに成功したが、天皇の公武合体による攘夷の意志は一層強化された。そこで幕府としても、せっかく公武一和の回復したことであるから、朝意遵奉の一端として何か朝廷を喜ばすことはないかと知恵を絞り、(長崎・横浜・箱館のうち)せめて横浜一港くらい閉鎖してみせてはどうか、というアイディアが生まれたのである。】
このアイディア言い出してみたが行き詰まり、そこにヨーロッパの条約国に使節団を派遣したら、と言い出す者が出てきます。
【 これに飛びついたのが(将軍後見職の)一橋慶喜であった。】
交渉して成功すればそれも良し、たとえ失敗しても3、4年の時間稼ぎになることが一番の魅力と考えた。
その頃、公使から井土ケ谷事件の謝罪等の使節をフランス政府に送って欲しいとの申し入れがあり、それに合わせて横浜鎖港の事も交渉にと外国奉行池田筑後守長発一行の遣欧使節団となった所以です。
慶喜の派遣の狙い所も知らず国に殉ずる赤心に富み、それ故にこの使命を奉ずるや死を決していたらしい池田筑後守でした。攘夷感情にあふれていた筑後守でしたが、巴里(パリ)の市内を見物させられているうちに、
【 いったい、いま自分たちは日本から何を攘(はら)い斥(しりぞ)けようとしているのか。まだ二十八歳の筑後守にとって、肌に感じる西洋文明の華やぎは抗いようのない魅力となって心魂を惑わし、しばしば自分の任務を忘れさせた。】
昨日紹介頁を部分拡大してみます、
そして、
【 自分の胸中で形づくられた決意を、使節団の幹部一同に表明したのである。】
【 いままでの攘夷主義を払拭し、日本の将来は〈開国〉以外にないと結論づけられたことを宣言した。そしてこれを機会に、朝廷のご機嫌とりのために〈横浜鎖港〉といった、非現実的な外交政策を持ち出すような、姑息因循な幕閣の態度を打破し、京都に上がって、臆病で疑り深い公卿たちの迷妄を覚まし、無識無学で宇内の形勢にうとい過激浪士どもの頑迷固陋な頭を打ちくだき、あっぱれ〈開国の国是〉を定めようではないか、と説き、そのためにはこのたびの使節団の一行が力を一つに結集し、他の国々への歴訪を取り止め、ここから直ちに本朝に帰国して、幕府に建言し、朝廷に抗議し、死を決して公卿たちと論争するならば、その意を貫徹できないことはないはずだ、と強調したr。】
この後、昨日の一行です。
「だれ一人、それに反対する者はいなかった。」