kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

酔いざめの水。

2013-01-20 05:28:38 | どこまで続くかこのブログ

 したたかに酔い、つぶれはしなかったが「つぶやける」状態でなく帰宅する

や寝床にダウン。森山神社氏子会の新年会でビールと冷酒のちゃんぽんで

す、参ったと思いながらも杯を重ねもともと飲めない方なので足元も危なくな

る有り様。それでも昨年よりは酔いは浅かったと思います。

 昨年はビールと冷酒に紹興酒が加わり、さらに何方かが持ち込んだウイス

キーが注がれて完全に参りました。人がアルコールが元で気を失い亡くなっ

て逝くとすればこんな状況になっていくのかなと実感でき、それはそれで面白

かったのですが、二度とするべきことではないとの自制も働き、今夜は控え目

でした。

 

 昨年、かなり飲み合った人が、乾杯のビールだけで、まったく受け付けません。

聞くと昨年十月ころ血圧が高いと診断され、医者になにか言われたわけではな

いが、自制しているのだとのこと。

 人がその場での快さをセーブして、なお自らの健康に留意するのは、自分の

人生の目的にもとずく価値観によって日々を律していくからでしょう。己という

器を通じて何を実現しようとしているのか、特に定年後の人びとが活動する氏

子会など地域のつながりの場では相互理解の要の問題であろうと知ったこと

で、酔いざめの水もまことに甘露でした。


kaeru折り返し点に。

2013-01-18 23:26:30 | 花はこころの器

  チューリップ喜びだけを持ってゐる   細見綾子

 チーリップを掲げてはしゃぐほど嬉しいという!とは大げさですが、今日で

つぶやき開始七ヶ月目に入りました。一応1年間を目途にしていますので折

り返し点を通過したというわけです。

 思いがけない多くの人が訪問して下され閲覧されている、やはりそのことが

続けられた原動力かな、と感じています。 月並みですがこれからもよろしくお

願いします。


地震が万事、18年前の今日。

2013-01-17 22:25:15 | せいじの政治カフェ

 18年前の今日、いうまでもなく兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災。

あらためて振り返ってみようと、読みだした一文に次のようなことが書かれて

いました。

 

 いつ頃からか、「関西には大地震はない」との風聞が定着し、だれもが大

惨事は起りえないと過信するようになっていた。その結果、地震としては中

規模にすぎないものを阪神・淡路大震災といわれるほどの大災害にまでし

てしまった。

 この意味で、この地震にどう対処すべきであったかをあらためて考えるこ

とは、地域をこえた全国民の問題でもある。よく「一事が万事」といわれるが、

今回の地震は「地震が万事」といえるほど、地震が人間そのもの、そして人

間が住む近代都市を直撃し、人間生活のあらゆる面を震撼させた。

 (ブリタニカ国際年鑑1996 「〔検証〕阪神・淡路大震災」 太田裕氏 寄稿

文より)

 

 「3・11」二周年を二ヶ月前にして、「地震が万事」という言葉の意味を 「一

事が万事」の言い替えに止まらず、まさに「全国民の問題」として考えなけれ

ばと思います。 それは総選挙後の原発の再稼働、さらに新設までもが取りざ

たされているという状況のなかで、私たちに突きつけられている言葉です。


松島やああ松島や松島や

2013-01-16 22:20:10 | kaeruの「おくのほそ道」

 松島はこの句のように詠嘆するほかのない美しさだ、という意味。

 この詠み手を芭蕉だという俗説は誤り、実際は江戸後期の相模国に住ん

でいた狂歌師・田原坊が<松島やさてまつしまや松島や>というかたちで

作り、『松島図誌』に掲載され、後に中七「ああ松島や」の形で広まった句。

もはや俳諧の発句ではなく、流行語というべきか。

 以上『三省堂 名歌名句辞典』による。

 

 松島は日本三景の一つで大小260余の小島が点在し、芭蕉は雄島を訪

ね島のさまを「おくのそほ道」に記しています。そのあと、瑞岩寺(現・瑞巌寺)

に詣でました。

 これら名勝・松島や国宝瑞巌寺は、3・11に被災しました。松島は津波の

汚泥に襲われ、観光客が被災して瑞巌寺に避難しました。湾内の島の一部

が崩落し、島と島を結ぶ橋が壊れたりしましたが、風評被害が甚大でした。

 一方、瑞巌寺は本堂の被害はなく、国宝の庫裏と廊下の壁に数ヶ所にひび

が入りました。

 松島湾を周遊する遊覧船は、行方不明者の捜索を続けていましたが、現在

では完全に震災前の眺望を回復しています。

 (3・11関係の7行は徳間書店発行「Townmook おくのほそ道」による)

 

 歩き続けているkaeru君は、昨日塩釜に到着し、松島まで8・4km歩数で

12,172歩というところまできていました。今日仕事は休みでしたので、バス

に乗らずに歩くなどして、1万4千歩以上歩きましたので今夜は松島泊まり。


今日は無礼講。

2013-01-15 22:57:16 | 中間詩的つぶやき

 元日を大正月と呼ぶのに対し、十五日を中心とする正月行事を「小正月」

といいます。昔、日本では一年の最初の満月(旧暦一月十五日)を一年の始

めとしていた名残とされ、小豆がゆを食べるなど家庭的な正月行事や「どん

と焼き」などが行われます。

 

 上の「小正月」解説は「天地明察」日めくりカレンダーの今日・十五日に記載

されているものです。せっかくの日めくりですから偶には登場させたいと思いま

す。 そういう訳で正月気分などまったく無くなっているかと思いますが、お付き

合いのほどを……。

 気分を清少納言の時代に移ってもらいます。

 「枕草子」の(正月)七日からはじまる第二段、

 十五日(とをかあまりのいつか)、節供(せく)参り据ゑ、粥の木ひき隠して、

家の御達、女房などのうかがふを、打たれじと用意して、(あと略)

 この部分の現代訳

 十五日、小豆粥の祝い膳をお出しした後、粥を炊いた薪をちょっと隠して、

女房たちが(互いにお尻を打とうと)すきをねらっているのを、打たれまいと

用心して、(あと略)

 

 小正月を女正月ともいい、大正月が上層の儀礼的性格をもっていたのに

対して家庭的な平安貴族の家でも無礼講で、粥を煮る薪を削った「粥の木」

で女の尻を打つと、男の児を懐妊するという俗信があって、その様が書かれ

ています。

 


成人と老人。

2013-01-14 23:56:04 | どこまで続くかこのブログ

 成人の日、だからこんなタイトルにしたのですが、何を書こうかと?

 

 二日ほど前に仕事先で 「自分たちが子供のころは7080の爺さん婆さんと

いえば、冬なら背中を丸め炬燵にあたっているイメージだよね」、と話し合い

ました、相手は69歳のご婦人、当方は75歳。 それがいまでは、仕事先で

いえば7人のうち高齢者といわれる65歳以上が4人、私のほかに73歳の

婦人労働者。 この人は女性としてタクシー運転手を20余年間勤めてきた、

いま施設の洗濯場でかなり厳しい仕事をこなしています。

 全体として元気な高齢者も多いといわれます。 「子供は親の背中をみて育

つ」といわれますが、超高齢社会の現代では背中を見せているのは父母の親

=祖父母でもあります。そして祖父母達が孫の視線を意識して、自ずから姿勢

を正しているだろうかと思います。

 

 高校一年生の孫は、母親の再婚のよって私との孫・爺関係が生まれたので

すが、その時は小学校一年生でした。 父親になるべき私の長男とふざけて遊

んでいても、私がその間に入ると身を固くしたものです。お爺ちゃんという呼び

方も分からず、会話のなかでは「お父さんのお父さん」と呼んだりしていました。

 ある時、家族での温泉旅行の帰り道、彼と一緒に歩いていると彼の方から手

を握ってきたことがありました。

 その時、私は彼から祖父として選ばれた、と実感したのです。

 自然につくられているようでも、肉親関係も意識的につくりだすものだと感じまし

た。 肉親でもそうなのですから、地域や各活動分野での老世代と青年世代の交

流にはかなりの意識的な活動が必要だと思います。今年はその辺が私にとって

の課題だな、と成人の日の感想です。

 老人よ大志を抱け、青年とともに! ということでしょう。


消えない聖母像。

2013-01-13 17:34:13 | 本のひと言

 昨日のブログに二枚の聖母像の写真がありました。 大きさが違いますが、

同じものです。 特に意味があってこうした訳ではなく、上の写真を外そうとし

たのですが消えないのです。

 編集画面には写っていないのに、ブレビューにすると現れるのです。また編

集画面に切り替えてみてもそこには何もありません。 編集画面とブレビューが

違うことはあります、文章の配列とか行分けなど。 しかし、編集画面に無い文

字が現れるとか反対にある文字が消えるとかはありませんでした。

 

 このブログの記憶機能は、文字情報と写真情報の記憶の仕組みが違うので

しょう。 それによって入力方法も出力方法も異なってくるのでしょう。 ブログづく

りにかかわる以上少しでも基本的なことを知らなければならないのです。

 これが聖母像だからよかったので、醜い蛙面が消えないという状況になったら!

 

 『愛は脳を活性化する』 に人間の脳の記憶機能とコンピュータの記憶機能の違

いが説明されています。 そして、科学者は「脳型コンピュータの開発に向」ってい

るそうです。 「情けないコンピュータ」から「心あるコンピュータ」の誕生をめざしてい

るのでしょう。 コンピュータ科学は人間を知る基本的な知識になのかも知れません。

「物」を通して「人間」とはなにかへのアプローチとして。

 


今夜も一言、「情け」について。

2013-01-11 23:18:34 | 本のひと言

   こういう話。

 1、生まれてきた赤ん坊の生理欲求には応えるが言葉かけなど関わりを一

   切しないでいると、赤ん坊はすべて死んでしまった。

 2、狼に育てられた人間の赤ん坊は狼のようになるけれど、人間に育てられ

   た狼は人間にようにはなれない。

 

 1、人はパン無しには生きられないが、パンのみでは生きられない。 ヒトには

   生理的欲求とともに関係欲求が遺伝的に備わっている。

 2、脳の環境への対応能力は遺伝的に規定されている。 35億年かけて獲得

   してきた人間の脳にはオオカミ的になる遺伝子が組み込まれているが、狼

   の脳には人間的になる遺伝子はない。

 

  こういうこと? (昨日の一二行も含めて)

 人間の脳にとって最大の価値(情報)は関係欲求の充足であり、それは「情(情け)

=愛」という概念で表現されるもの。 


今夜のひと言、「情」について。

2013-01-10 22:50:14 | 本のひと言

 今夜という時間内につぶやいておきたい事、昨日とは違う明日とも違う

今日という日のうちに記しておかねばならないというような事が、つぶや

きというような小さな言動にふさわしいのだろうか。

 誰かを意識して話しかけているわけでもない、自分のつぶやきに自分

がまず気づく。 あーこんなことを言っているのか、思っているのかと。

 

 つぶやきの内容の核になっているのが「情」である、と指摘されたと感

じたのが先ほど広げた本の次の文章です。

 “われわれは情報なしに生きることはできない。 ~ 情報のなかで人に

とって最も重要な事柄は 「情」 である。”

 “人にとって情報化社会とは、人の心に潤いを与える、情の通い合う社

会でなくてはならない”

 100頁ほどの本のわずか一二行ですが、この文章を理解したいため

にひと通り目を通したくなりました。 本の名は 『愛は脳を活性化する』(岩

波科学ライブラリー)です。