今日は2年10ヵ月目の11日です。必要な写真も用意したのですが、パソコンが接続出来ません。明日に持越しです。残念ですがご了承下さい。
追伸(12日) 接続できず、とりあえずPCを借りてきて対応します。
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昨日のつづきで、自治体の選挙の話ですが、規模とその政治的意義はか
なり違います。しかし、その基本は昨日の曾於市の市民運動と選挙活動に
ある思います。
自治体はその規模の大小にかかわらず住民の生活と福祉を守るための
組織です。そのような組織にしていくのは住民自身で、選挙はその重要な
機会です。
いち早く都知事選への候補に立ちあがった宇都宮健児さんの決意と活動
ぶりを紹介します。
このサイトからご覧下さい。http://utsunomiyakenji.com/
曾於市(鹿児島県) 池田市長が退任 [ 7/30 19:37 KYT鹿児島読売テレビ]
今月21日の曽於市長選挙で敗れた池田孝市長が任期満了のため、30日庁舎を後にした。曽於市の池田市長は、3町が合併した平成17年から2期8年にわたり市長を務め、小中高校のすべての学級に電子黒板を設置するなど教育にも力を注いだ。今月21日の市長選挙では、新人で共産党員の前市議五位塚剛さんとの一騎打ちに。曽於市が約13億円を投じ進めているパークゴルフ場、フラワーパーク事業を争点に中止を訴えた五位塚さんが、池田市長を破り初当選した。池田市長は「これからだという時に、つまずいてしまった。少し心残りだが、政策的に考えると10年後にあのとき作っておけばよかったと思う日がくるのではと思っている」と話した。池田市長の退任に伴い副市長2人も辞職した。 (文中下線はkaeruによる)
上の記事は鹿児島県曾於市の市長選挙後、前市長の退任を報じた地元のTV局のものです。
そして、下の写真は、現市長のインタビュー記事で昨年暮れの30日「しんぶん 赤旗」に載った
ものです。このなかでの五位塚市長のコメントの幾つかを抜き書きしておきます。(一部略)
九州初の共産党員市長 鹿児島県曾於 五位塚剛さん(59)に聞く
その1。 最大の公約だったフラワーパーク(花公園)建設をこの12月議会で中止することができました。保守系を含むほとんどの議員が民意をくんで賛成した結果で、市民の勝利です。最初の9月議会では、花公園の跡地利用の市民検討委員会設置予算が認められず、副市長人事も同意を得られませんでした。
その2. 市民の皆さんが私を支える議員を増やそうと、11月の市議選で議会勢力を大きく変えました。この12月議会で議長を除く19人中18人の圧倒的多数で花公園整備事業費3億1000万円を予算から削除し、跡地利用委員会の設置、副市長人事も決まりました。議会の変化を実感しています。
その3. 公約の二つ目、75歳以上全員に敬老祝い金支給は、9月予算枠内で実現。暖かいお弁当を毎年食べていただきたいと、職員350人で手分けし、9000人のお年寄りを直接訪ね大変歓迎され、職員にとっても喜びになりました。今後は高齢化・少子化対策に力を注ぎ、中学卒業まで無料の医療費は高校卒まで、現在平均1万8000円の保育料は1万円にしていきたいです。
その4。 農畜産業が基幹産業なので、農家の所得を増やすためにも漬物など加工品製造などにも取り組んでいきたい、街の発展のために市民の皆さんと知恵を出し合い、力を尽くしていきたいと思っています。
今日の「赤旗」に最近行なわれた日本共産党とベトナム共産党の理論会
議での日本共産党の不破団長の報告(上)が掲載されています。全文は
ここで(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-08/
2014010807_01_0.html )読めますが、文中に今日のタイトルに関
する部分がありましたので、その部分を。
≪(1966年2月)日本共産党とベトナムの党が本格的な会議をやったのは、
これが初めてです。(お互いの党に通訳できる同志がいないので、中国語を
介しての二重通訳でした。会議が終わって)宮本同志(日本側団長)とホー・
チミン同志(当時ベトナム国元首)と両党の今後のことをいろいろ相談し、そ
の中では、双方で直接自国語で通訳できるような学生を養成しあおうじゃな
いかということも含まれていました。≫
その養成に応じた一人が当時東京港区の電気メーカーの職場で活動し
ていた高野功氏でした。この高野氏を思い出せてくれたのが昨日のこの
ブログ、http://blog.goo.ne.jp/setoti1940/e/6e7ad5c559031b
76e3a076c8ce63e0e7#comment-list です。是非見て頂きたい、
読んでいただきたいと思います。 チトセさんのアオザイ姿も歌う姿と歌詞も。
ここではkaeruのコメントの一部を載せておきます。
1979年ベトナムで当時ベトナム・中国間の国境での
戦争で、取材していた「赤旗」記者の高野功氏が中国
軍の射撃で殺されました。彼は港区時代の仲間で、奥
さんが上田の高校を出た人でした。
さて、この本は表紙に見られるように「ベトナム戦争で亡くなったジャーナ
リストの妻たちの語る記録です。(『わが夫、還らず』砂書房 2000年5月刊)
6人の妻たちの記録のあと、報道カメラマンの石川文洋さんがこう書かれ
ています。
≪いくつかの資料をあわせると私の計算では氏名が分かっているだけで
取材中に尊い生命を失ったジャーナリストは172名。 最初の犠牲者は19
54年3月13日、第1次インドシナ戦争を撮影中、ベトナム北部、ラオスとの
国境に近いディエンビエンフーのフランス軍基地内で砲弾を受けたフランス
人カメラマン、レイモン・アルチノフ。最後となったのは1979年3月7日、ベト
ナム北部ランソン省で中越戦争を取材中、中国兵の狙撃に遭った赤旗特派
員の高野功。≫
最後に石川さんが書かれている国別の犠牲者数。
アメリカ22、カンボジア22、フランス19、日本15、シンガポール3、イギリ
ス2、西ドイツ2、韓国、オランダ、カナダ、インド、アルゼンチン、スイス、各1、
ベトナム人はベトナム共和国(南ベトナム)側4、北ベトナム、解放戦線側72。
この優れた同志のことを思い出させる切っ掛けになった昨日のチトセさん
のブログに感謝します。 そして、こういう「出会い」もブログで「つぶやき」つづ
け、なにかと読み見つづけてきた「効果」かと思います。
終わりに、この本の「高野功」の章の〆に高野氏の妻・高野(旧姓 本道)美
智子さんについて書かれていることを紹介しておきます。
≪今、美智子はもう一度福祉の勉強をしたいという。自分の両親をみていると
老人介護のありかたもよりはっきりした形で見えてくる。また一日の大半を子ど
もと二人きりで過ごす娘を見れば、若い孤独な母親に対して地域と密着した保
育がどのような役割を果たすべきかということも見えてくる。美智子は自分でな
ければできないことを今また始めようとしている。≫
多くの賀状をいただきました。
「ブログを見てます」とか「コメントのやり取りが面白い」とか書き込みも
あって、kaeruとしては冬眠でうつらうつらしているわけにはいかないと、
そう大きくない気を引き締めているところです。
そして、「仲間が亡くなることの寂しさ」が書かれているものもあり、そ
ういう年代に達していることをお互いに認めざるをえません。ただ決まっ
た仲間の関係では増えることはなく、減っていくことは確かでそのなか
で何が必要か、と問われているのでしょう。
30人の中での関係が、15人になれば単純にいって半分の密度にな
り、100%から50%に落ちたわけです。いままでの30人用の部屋で
集っていたら「寂しくってたまりません」から狭い部屋に替えます。
それを日常の付き合いで考えれば、一年に一回の顔合わせでなく、
日ごろの交流を心掛ければ密度は当然アップします。そして密度の濃
さは生活の濃さでもあり生命力アップにもつながります。
どうしたら密度をアップできるか、簡単です。ブログの活用です。
もちもん、ブログだけでなくTwitterとかFacebookなどでの交流も含
めて言えることでしょうが、これらはkaeruはあまり使っていませんので、
ブログに絞ってのことです。
「ブログを見ます」から「よく見ます」とか「毎日見ます」へ。
「見ている」から「ひと言コメントを」に。
「コメントのやり取りが面白い」と言った人は、ぜひやり取りの仲間になっ
て下さい、「面白さ」倍増です。
それより、「見たくなる、読みたくなる、難しくない」ブログにすることが
大事じゃないの、とか。「コメントしたくなるよう」にしたら、とかもコメント
なりメールで下さい。(メール:daybyday1937@gmail.com)
「ブログには華」があるのです。
昨日の前都知事・猪瀬氏に関する「つぶやきい」の続きです。猪瀬氏が
中学生の時の先生について書かれたものがありました。2011年5月23日
の「毎日新聞」の「学校と私」欄です。
出だしに≪中学3年間の担当は海軍上がりの数学教師でした。怖い先生
で、怒られて言い訳をすると、「うるさい、言い訳をするな」と怒鳴られ、ピン
タが飛んでくる。毎日のように誰かがたたかれていました。でもポリシーが
感じられて好きでした。≫とあります。
さらに、先生になった理由について≪終戦時、自決しようと思ったが、上官
から「新しい日本を作れ、子供たちを作れ」と諭され、思いとどまったと。熱心
だった理由が分かりました≫と書かれています。
先生が最初の担当になったのが私たちのクラスでした、1950年です。音楽
と数学を担当されていました、厳しい先生だっという印象は強くありますが、毎
日誰かがたたかれているというようなことはありません。
1946年生まれの猪瀬氏が中学生のなったのは1959年です。この間に中学
校の教育現場が変わったのか、先生の気性がより厳しくなったのかわかりませ
んが、厳しさのなかに生徒への深い愛情をもっていたことは私の個人的な経験
からも確言できます。そのことに触れる機会があるかもしれませんが、いまは猪
瀬氏のこと。
この文中の「言い訳」についての続きです。
≪5年ほど前(2006年頃)にお会いした際、「先生は『言い訳するな』が口癖でした
ね」と切り出すと、思い出話をしてくれました。海軍に入るための試験で、「回れ右」
と言われたのに、一人だけ左を向いてしまった。後の面接で「お前だけ左を向いた
な」と問われ、「はい、そうであります」と言い訳をしなかったら、合格したそうです。
戦場で間違いに気付いたら、すぐに次善の策をとらないと、場合によっては部隊
は全滅する。「教官(先生のこと)」は間違いを素直に認めることの大切さを教えて
くれていたのです。≫
ここで書かれていることを今回の5000万円「受け取り」と「返済」の経緯、ならび
に「借用書」問題などの「言い訳」と比べその矛盾することは明らかです。
ただ尊敬すべき私の「先生」、猪瀬氏の「教官」の同じ教え子として、氏がこの一文
の〆に書かれている≪「教官」の戦争体験も私の作家活動にずいぶん役立っていま
す≫がこれから生かされることを切に望んでいます。
猪瀬直樹氏のこの本・『勝ち抜く力』が書店に並んだ日(昨年12月18日)
に都知事辞任が報じられていました。このタイミングの「良さ」からみて、氏
には自分を取り巻く状況が見えていなかったと言えます。
猪瀬氏は長野県の出身で、中学時代の教師が私が上田で教わった先生
でした。先生が長野市に移られた時の生徒です。
先生の自宅へ伺うと氏の著作が棚に並べられています。出版されると必ず
送ってくるんだ、と先生の話です。「いろいろ本を出すようになり、いろいろな
場に出るようになると、それを維持するのが大変だ」というようなことを話して
いたよ、とも先生から聞いた話です。
昨年夏の都議選で躍進した日本共産党都議団を先頭としての追究が
猪瀬氏の都知事辞任に向かわせるうえで決定的な役割を果たしました。
その共産党が恒例の「党旗びらき」を開き、今年の展望を志位委員長
が語っています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-05/2014010501_01_1.html
そのなかで、自公が秘密保護法を強行したことで、安倍政権の「終わりの
始まり」を告げることになったと述べています。
≪この問題で何よりも重要なのは、ごく短期間に、これまでにない広大な人々
が反対の声をあげ、たちあがったことで≫≪多くの人々が、この企ての真の目
的が、「海外で戦争をする国」づくりにあることを、見抜きはじめています。これ
は、日本国民の中の平和と民主主義を求めるエネルギーがいかに広く、深い
ものであるかを示すものであります。安倍政権はその全体――日本国民の良
識の全体を敵にまわしたのです。≫
≪安倍政権の暴走は、国民多数の声に背き、世界の流れに背く逆流で……。
この暴走の先に未来はありません。逆流は、必ず歴史と国民によって裁かれま
す。≫
国民の一人として、安倍政権の暴走の本質を見抜き、平和と民主主義による
社会のありかたを確実なものにする勝つ力をつけ、孫の世代へ手渡していく年
にしていきたいと思います。
昨日のブログ「翌檜ちゃん」に「古式日本刀鍛錬打ち初め式」の様子が載っ
ていました。見事な刀匠の技から飛散る火花を目にすることができましたが、
この火花は何度くらいかな、と思っていました。(そのブログは下記)
http://blog.goo.ne.jp/kt2468_004/e/b282898f4ceccf4876d9e83a41adc392
その温度が昨日の「しんぶん 赤旗」の見出しになっていましたので分かり
ました。
この写真は多分「翌檜ちゃん」ブログでの「一番いいところは 報道関係者
の人たち」の場所から撮ったもので、これも当ブログの「火花は最初の大鎚の
ひと振りがよく飛びます」とありますので最初のひと振りの瞬間だったのでしょう。
1300度が鉄を溶かし自由自在に曲げられる温度ならば、鉄が蒸発する温度
(沸点)は2862度だそうです。 そして広島・長崎の原爆時の地面温度は3000~
4000度であったとのこと。
古代から火を制御しつつ暮らしに役立ててきた人間の歴史を刀匠の眼差しに見
ることができます。
蝉といえば夏、そして芭蕉の句と立石寺です。
閑さや岩にしみ入蝉の声
(しずか) (いるせみ)
「kaeruのおくのほそ道」もその立石寺に着きました。 (12月31日着信)
○立石寺に到着しました。 次の目的地 新庄
○次の目的地までの距離 60.7km 歩数 81,028歩で達成です。
芭蕉がここに立ち寄ったのは元禄二年五月二十七日(1689/7/13)で、
当初予定になく 『おくのほそ道』 本文に「人々のすすむるに依って」と書か
れている通りです。
もし人がすすめなければ芭蕉は立石寺に向かうこともなく、当然この一句
も詠まれることもなかったなどというのは無駄話で、要は芭蕉の俳諧人生に
おいて詠まれるべくして詠まれた一句だということです。
その辺のところを長谷川櫂さんは、≪芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にう
ねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづい
ています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑
さ」を感じとった。本文の「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として」、あたりの美し
い景色はただひっそりと静まりかえって、とはそういう意味です。
このような「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地
の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのです。(略)
この句は古池の句によく似ています。
古池や蛙飛こむ水のおと
古池の句は「蛙飛びこむ水のおと」という現実の音を聞いて「古池」が心の中
に浮かんだという句でした。山寺の句は、「岩にしみ入蝉の声」というこれも現
実の音を聞いて心の中に「閑さ」が広がったといっている。つまりこの句も古池
の句を発展させた句です。≫
長谷川さんは芭蕉は「古池の句」を詠むことによって会得した俳諧の境地を
深めていく過程として「おくのほそ道」の文学性を見ています。芭蕉が「古池の
句」を詠んだのは「おくのほそ道」への旅に立つ三年前です。その「古池の句」
を生みだすまでに芭蕉の人生の半ばがありました。
「古池の句」に至るまでの研鑚とそれを受けての「おくのほそ道」の旅、その
旅を通じての芭蕉の到達していく境地。 蝉が夏木立のなかで鳴くに至るまで、
数年の地中での生存を要したことに比してもよいでしょう。
この寒空の山中のさらに土の中、数か月あとの夏空へむけての準備の過程
の幼虫がいます。
葉山・森山神社の「世計り神事」とは米作の吉凶を占うもので、詳しくは
http://moriyamasha.jimdo.com/世計り神事 でご覧下さい。
平成二十六年を占い社殿前に掲示されているのが次の写真です。
初詣の二日目、長男一家がお参りにやってきましたので、氏子会世話
人兼爺として写真におさまりました。
誰が誰かは省略しますが本人だけを、左端の光りに身をさらしている
者です。氏子会の半纏をまとっているのですが白色ですので分かりま
せんし、なんとなくダラシナク見えます(見えるだけでなく本当にだらし
ない)。
だた小学2年生の孫の顔が下を向いてしまっていました、再登場。
紙縒りのメガネでテレ隠し。
元日のお参りが圧倒的に多いのですが、今日も朝からほぼ途切れ
なく来られます。 そういう気で見ているせいかも知れませんが、ゆっく
りと拝んでいる人が多いようです。
かなり拝んだ後次に場をゆずり、脇に避けるように立ってさらに拝んで
いる人も、四十代のご婦人。苦しい時の神頼み、というより自分の願いを
「神」を介して確認しているように思えます。
よく「目標」を紙に書き出し、明確にすることが大事などと言われますが、
「神は紙」の役割をしているのではないでしょうか。
そんなことを思いながら、拝礼の終わった人に(赤ん坊も含め)お渡しし
ているのが、下の「祝い箸」です。
箸の脇に置いたのはkaeruの年賀状、妻と連名分は昨年中に投函済です
が、友人関係などでこれからの分もあります。あいさつに「ブログをはじめて
いること」とURLを記しておきました。
ほとんど同年輩ですから、PCそのものに縁遠い者も多いと思いますが、
何人かでもつながれば日常的に「あいさつ」ができるわけで、年に1回の
付き合いから飛躍的に発展させることができるというものです。