kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

kaeruの俳句。

2016-09-20 20:45:38 | kaeruの五七五

季節は蛙の出る幕ではありませんが、灯火親しむ蛙がいても良いでしょう。

9月の句会の五句です、どれも出したままのものはありません。主宰をはじめあれこれの意見を頂き推敲したものです。

それにこの句も、

「不屈」という機関紙(治安維持法犠牲者国家賠償請求同盟)の9月号です、左の川柳に名前がある小池(私の弟)が携わっている機関紙で頼まれ投稿でした。確かにその夜の夢に誰の骨かは分かりませんが、手に取って拭いている姿を見たのです。それが自分であったか他者であったか薄れています。

さて来月の兼題は、

竜田姫、新米、一位の実、いずれもわが身の周りには縁遠いものです、

さて詠めるかな。


秋彼岸 消えるもの疎し。

2016-09-19 21:35:17 | kaeruの五七五

  午前中に坊さんが来て読経、長男夫婦と義妹に私達夫婦、孫たちは来れず、でした。午後は私達夫婦でお寺さんへ。

  お盆はかなり早く出たつもりでしたが椅子席は満員、入口の隅に座り込んだのでしたが、今日はまるで少ない、3月の彼岸より減っているという感じでした。法会のあと墓地へ卒塔婆を持って行きましたが私達以外の夫婦連れが見当たらないのです。

  法会中、住職の声高に読み上げるものの中にわかる言葉は先祖代々ということ、その言葉がなんとなく浮いて聞こえてきました。先月の祭では若い人の活気というものを感じたのですがお寺さんでは、それが見られません。祭と仏事の意味合いの違いからくることでしょうが、なにやら消えるもの疎し、の感です。

  それはお寺の近くで見た空き地、確かお盆の時には解体がはじまっていたのでした、妻の友人の家だとその時聞いたことを覚えていました。だがどんな家が建っていたのかまるで記憶がありません、この辺はかなり歩いている所です、記憶の中に残っていてもいいと思うのですが……。人も建物も消えて終えば疎し、になりやすいものです。

 祭も法会もそれに抗う意識的な行事なのでしょう。

 俳句に向う気持にもそんな思いがあるのではないでしょうか。

 季節は移ろいやすいものであればこそ、それに抗って心に止めるため心にしみ込みやすい五七五の口調にのせる、そんなことを思った雨の秋彼岸の一日でした。

   秋彼岸めっぽう亡夫に逢ひたくて    渋川君枝

   秋彼岸行ってあげたい父母の墓       小迫ツネ

   亡き吾子に庭のもの剪る秋彼岸       松本美簾

   秋彼岸夫は海越ゆ地に眠る             相澤寿江

   秋彼岸兵戈無用の文字鐘に             田 湯 岬

       『ザ・十万人歳時記 秋』より     

 


真田信之評。

2016-09-18 21:21:57 | 「真田丸」

   歴史学者の目でみて、「信幸による父弟の助命嘆願」は 疑問符だそうです。

   今夜の真田丸「信之」は第二次上田合戦で秀忠軍にひと泡ふかせた昌幸・信繁父子が死罪になるところを信幸が舅・本多忠勝等の尽力も得て家康に翻意させた、という場面がヤマだったでしょう。このヤマ場に疑問符をつけているのが平山優さんです。

   前回の「第二次上田合戦の真相」でこの合戦は真田側にとっては「転がり込んできた勝利」と言われた方です。通説ではない史実にもとずく歴史の見方受けとめ方だとして耳を傾けたい人です。

   こう言われています(「NHK大河ドラマストーリー 真田丸 後編」頁125)。

【 しかし、考えてみれば「関ヶ原の戦い」の結果、死罪を命じられたのは石田三成や安国寺恵瓊といった首謀者に限られていて、一般的には改易が妥当な処置だったのです。西軍の事実上の主将格だった宇喜多秀家でさえ、八丈島への島流しです。したがって、この助命嘆願がかなってうんぬんというのは、後世、真田家が行った脚色のような気がします。その脚色によって、昌幸とその子・信繁は徳川を苦しめた名将であったと印象づけ、藩祖の信之は、命懸けで父と弟の命を救った名君なのだということをアピールすることもできたわけです。】

   そうもいわれる信之ですから、どういう武将かとwikipediaを見てみました、するとこんなことが、

 

   末尾の(8)とは長野県松代にある「真田宝物館」による、ということです、宝物館に現物があるということでしょう。全文は、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/真田信之 を。

   信之の父・昌幸が「表裏比興者」と言われたことをこのブログでも触れました。

   信之の表裏比興は父・昌幸譲りでありスケールの大きさからいえば、父を上まるでしょう。今までの信之観が変わり始めましたので、

 

  ここでの一票は昨日までは断然信繁でしたが、信之に傾きかけてます、さてこれからのドラマの展開と信之に関する理解を深めてからに決まるでしょう。


「3赤」を見る。

2016-09-17 22:20:09 | せいじの政治カフェ

「3赤」とは、広島東洋カープ、日本赤十字社、日本共産党です。見るとは各組織の財政を見るということです。なぜそんなことを思ったか、昨日の「しんぶん赤旗」の「読者のひろば」のこの投稿を目にしたからです。

   広島カープが12球団唯一の親会社を持たない球団だということを知ったのも「しんぶん赤旗」の記事からでした。それまで他の球団と同様自動車の「マツダ」が親会社だと思っていました。

   先日の「てんがらもんラジオ」に日本赤十字社の職員がゲストで出ましたが、「赤」が共通しているだけでなく、日赤は社員に依拠した財政、広島カープはファン・市民に頼った運営で共通していると感想に述べました。そこで日本赤十字社のHPから、

 

   日本赤十字社の財政活動の問題が災害時の募金活動の受口になり、その配分を巡っておきます。ことの性格から言っても赤十字精神から問われても追及されるべきことで、その追及主体は社員にあるということもこの財政構成が示していると思います。

   あわせて「赤」とくれば日本共産党です、この党が政党助成金を受け取らず政治活動ができるのは、党員・機関紙読者・国民に依拠した財政活動を行えるからです。これも財政構成を見てみました。

 

 これは「平成27年3月27  東京都選挙管理委員会 事務局」印のある「収支報告書」の部分です。これを見ればこの党がどれだけの人々に支えられている分かります。

  最後に広島東洋カープについて、一覧的なものは見つかりませんでしたのでこれを、

  この日付にありますように一昨年のものです、書かれています「もし来年優勝に絡むこと」は翌年=今年の優勝で実現されました。この記事は、http://setsuyaku.ceo/post/62/広島カープ39年連続黒字の節約市民球団  です。

  広島市民の涙の意味がよくわかりました。


「第二次上田合戦の真相」その5・ 了。

2016-09-16 15:01:51 | 「真田丸」

   小説集『真田幸村』のことです、どの短編も筆慣れた作家によるものですから思わずひきつけられ読み終わってしまいました。前回そのなかの菊池寛の「真田幸村」から第二次上田合戦の一逸話を紹介しました。この話は昌幸の武将としてに器量の大きさを示す話でしょう。

  この部分の直前に、

【 真田安房守昌幸は戦国時代に於いても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉継、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗位の仕事は出来たかもしれない男の一人である。…… 】と綴っています。

   ドラマでも草刈正雄演ずる昌幸が、堺雅人の信繁を食っているとの評もあります。もちろん今までの場面は昌幸の見せ場ですし、信繁のそれはこれからですからこの評の評価は先に譲るべきでしょう。それにしても実戦歴の少ない信繁が大坂の陣でみせた奮戦ぶりは「この父にしてこの子あり」と言えますし九度山での暮しも含めて、父昌幸に添って生き抜いてきた間に学びとった成果であったでしょう。

   今日の平山さんの『真田信繁』は、「第二次上田合戦の実像」です。その前の節「軍記物が語る戦闘経過」で『寛永諸家系図伝』や家譜類、『武徳編年集成』などの徳川方の軍記物と、真田方の『長国寺殿御事蹟稿』などを参考に戦闘経過の概略を記しています。そのうえで【第二次上田合戦の実像】の冒頭部分で、

【 第二次上田合戦の経過について、これら軍記物がどこまで事実を伝えているかは、残念ながら検証できない。ただ、文書などと照合してみると、大筋の経過は事実と考えられる。】としてます。同時に【 一方で軍記物によると、秀忠は上田城攻略に拘ったが、本田正信らが諌め、美濃に転進したとされているが実際はそうではなかった。既述のように、秀忠の任務は当初より上田城攻略だったのであり、江戸の家康が急遽方針を変更し、秀忠に上方に向かうよう指示したのである。】

   このあと平山さんは秀忠軍と真田父子をめぐる状況を述べて、こう言ってます。【 いずれにしても、第二次上田合戦における真田父子の勝利とは、徳川方の作戦変更による攻撃続行中止の結果であり、もっといえば転がり込んできた結果的な勝利とみなした方が実態に近いのかも知れない】

   そのあと

【 ただ、徳川軍を緒戦で撃破し、さらに松本に抜ける青木峠を死守した真田父子の果たした役割は決して小さくはない】とは言ってます。

   歴史学者の目から見れば「実態に近い」方が大切かもしれませんが、「転がり込んできた勝利」とは、なんということを言うのですか! と言いたくなるのが元上田人の気持ちです。しかし、歴史を冷静に見れば、ここの部分が「第二次上田合戦の真相」なのかも知れません。


「てんがらもん」234回 日本赤十字社の社員ということ。

2016-09-15 21:15:43 | 「てんがらもんラジオ」

   日本赤十字社鹿児島支部から2人の方がゲストでした、ゲストの紹介と今日の番組はこちらをクリックして下さい、chidoriブログ234回 。

 

   お二人を前にして村永さんが「今日は広島カープから……」と冗談を言ってましたが、赤いユニホームはカープ色です。そしてお話を伺って、赤十字と広島カープと共通するものがあると感じました。

   広島カープは市民球団と言われます、この球団はプロ野球12球団で唯一、親会社を持たず市民に支えられ独立採算で運営されているのです。スタジアムの入場料と関連グッズの売り上げなどでここ40年間黒字経営を続けているとのことです。

  今回の話で心に残ったのは赤十字社を支えているのは「社員」だということでした。身近なようで遠い存在だった赤十字を自分のこととして、見直すことが必要だと思ったのです。

  私の家の玄関を見たら、

  「日本赤十字社 社員」の印が貼ってありました、というより剥がせず残っていました。何時貼ったものか記憶がありません。何れにしてもこの年だけでなく毎年500円は納めているので引き続き社員ではあるはずです。

   テレビ等で赤十字の皆さんの活躍を見ます、頑張っているなーとは思いますが、広島ファンが夢中になるようにはなりません。来年度は我が家が町内会の組長です、赤十字社の協力をお願いすることになります。今回、赤十字活動に理解を向ける機会をつくってくれたのですから、日本赤十字社の社員らしく積極的な協力をお願いできるようにしたいのです。

  そのためにも赤十字に対する知識が大切です。今日の話で赤十字の創設者はナイチンゲールだと思い込んでいたことが分かりました、また日本赤十字社の創設には西南戦争がかかわっていたことも新知識でした。鹿児島支部には2万人のボランティアが協力していることも知りました、わが町ではどういう状況なのか関心もわきました。

   以前、国際ローターリクラブの話を聞いて未知の組織が理解でき「てんがらもんラジオ」で勉強できたと思ったのですが、赤十字社の話の場合は「てんがらもんラジオ」に促されて行動が伴うようです。献血ができない年齢ですので出来ることをやりましょう。    


「第二次上田合戦の真相」その4。

2016-09-14 21:08:20 | 「真田丸」

「真相」に入る前にこの本です。

町の図書館によって棚を見ていたら「真田幸村」の文字が飛び込んできました。広げて書いている人の名前をみれば「幸村」でなければならないことが分かりました。

南原幹雄、海音寺潮五郎、山田風太郎、柴田錬三郎、菊池寛、五味康祐、井上靖、池波正太郎の諸氏です。立川文庫的な内容もあり、少年時代講談本を夢中になって読んだことを思い出しました。

 

いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】と書かれているのは【徳川秀忠、上田に迫る】の最後の部分です。そこから、

【 第二次上田合戦は、天正十三年(1585)の第一次上田合戦と同様、著名な合戦であるにもかかわらず軍事物など以外に確実な史料に乏しく、戦闘の経過がほとんどわからないのが実情である。まずは、文書で判明する合戦の経緯を紹介しょう。

   徳川軍は、九月三日、上田に接近した。すると、真田昌幸が徳川陣中の嫡男信幸を通じて助命を懇願してきたといい、秀忠はこれを受諾した(『信』18四九一)。その懇願の模様は、九月四日、秀忠が参陣してきた海津城主森忠政に宛てた書状に「真田安房守事、頭をそり罷出、可降参之旨、真田伊豆守を以、種々詫言申候間、命之義可相助与存、昨日以使者申入候」とあり、頭を丸めて降参しますと昌幸が信幸を通じて申し出てきたことから、秀忠はこれを許すと使者を派遣して通達したというのである(同前四九二)。

   ところが、四日になって突然昌幸は態度を豹変させ「至今日存分にて申候間、不能赦免候」と秀忠が森忠政に伝えたように、かなり言いたい放題の放言をしたため、交渉は決裂し、戦闘状態に入った(同前)。秀忠がかなり怒っているので、昌幸は相当挑発的な言葉を並べたらしい。

   徳川軍は、九月五日、上田城に接近した。すると、真田方は守備していた砥石城を捨てて上田城に撤退したといい、これを知った秀忠は、真田信幸に同城の接収と在城を命じた(『信』18四九二)。これで秀忠は昌幸打倒を確信したらしく、浅野長政に対して、ひとまず安心してほしい、こちらの仕置を行ってから上洛するつもりだと述べている。これを最後に、秀忠やその周辺の人々の書状に、上田合戦の模様は見られなくなり、戦闘の経過などはまったくわからない。】

   同時代人の回顧や伝聞としては、大久保忠教ただたか『三河物語』があるに過ぎない、として、その記述をかいつまんで紹介しておこう、と書かれていますがここでは略します。

   ただそのなかで「秀忠は宇都宮を出陣し、中山道を通って真田昌幸の城に通りがけに攻め寄せた」とあります、通説の出処の一つでしょう。

   先ほどの『真田幸村』のなかの菊池寛の作品「真田幸村」のなかに、第二次上田合戦の逸話がありますので、それを紹介しておきます。

【 秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、使を命じられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う、昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途、又搦手に来り、通らせてくれと云う、昌幸又易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云って感嘆したと云う。】


「第二次上田合戦の真相」その3

2016-09-13 20:47:04 | 「真田丸」

   先程の「ふたつの驚き」のひとつ目、閲覧と訪問者数の一気の高騰に関連しますが、多分「第二次上田合戦の真相」と関係したのではないかと思うのです。この「kaeruのつぶやき」がはじめてランキングに顔を出したのが、朝ドラの「あまちゃん」をとりあげた時でした。振り返ってみました、

 

さて、本題の「第二次上田合戦の真相」です。

【 だが事態は急展開する。家康は作戦を急遽変更し、秀忠に対して急ぎ上洛し参戦するよう命じたのである。秀忠がこの指示を受けたのは、九月九日のことであったという(『朝野旧聞褒藁』巻二十二)。秀忠が家康から作戦変更の指示を受けたことが確実な史料で判明するのは、九月十一日のことである(『房総里見氏文書集』二六九号)。関ヶ原合戦は四日後の九月十五日、そもそも秀忠が美濃での合戦に間に合うわけがなかった。秀忠遅参説は、かなり誤解が多いことがわかる。こうした新見解を念頭に置きつつ、第二次上田合戦を再検討する必要があるだろう。】ということです。

この第三章「関ヶ原合戦と上田城攻防」はこのあと、

徳川秀忠、上田に迫る  一次史料が語る第二次上田合戦 軍記物が語る戦闘経過 第二次上田合戦の実像  と各節が続きます。 

「徳川秀忠、上田に迫る」では、

【 徳川秀忠は、榊原康政・大久保正信、酒井家次・本多忠政ら徳川譜代の面々を従え、与力大名小笠原信之、諏訪頼水らを加えた軍勢であり、それは徳川軍本隊秀忠軍は、ともいえる構成であったと指摘される(笠谷①②)。秀忠軍は八月二十四日に宇都宮出陣すると(『信』補遺下六〇)、二十六日に高崎(桑名市博物館所蔵文書)、二十八日に松井田(『信』補遺下六〇)を経て碓氷峠を越え、九月二日小諸に着陣した。

《( )内の記号の史料については別記します。このあと、秀忠軍の小諸到着に呼応した信濃の各大名の動きが記るされてます。信幸についても書かれてますが、先を急ぎましょう。》

   いっぽう、江戸の徳川家康は、東軍の豊臣大名たちが八月二十三日に岐阜城を攻略し、二十四日に美濃赤坂に進んだことを知ると、慌てて出陣の準備に入った。家康は、味方になったとはいえ、福島正則、田中吉政、黒田長政、山内一豊ら豊臣大名を信じ切ってはおらず、江戸で様子を窺っていた。しかし岐阜攻略と赤坂進出は、家康の予想を超えた速さであったし、またこれによって彼らへの疑念も払拭されることとなった。むしろ、家康不在のまま豊臣大名主導で、西軍が打倒されれば、家康の政治的主導権や発言力は大きく削がれ、彼の威信は失落してしまう。これこそ、家康が九月一日に江戸を出陣し、また真田攻めを命じていた息子秀忠に、作戦変更の変更と上方への参陣を至急指示した理由であり、それは他ならぬ家康の焦りによるものであった(笠谷①②)。

《太字はkaeruです、家康の爪噛む姿が浮かびます。このあと、秀忠と家康の連絡の行き違いや真田昌幸と信繁の徳川軍との対峙が書かれていきます、そして【 いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】となるのですが、火蓋を切ったあとは「一次史料が語る第二次上田合戦」へ入りますので、今夜はここまでです。

史料説明  笠谷①『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版 2000年/笠谷②『関ヶ原合戦と大坂の陣』(戦争の日本史17)吉川弘文館 2007年)/「『信』補遺下六〇」 信濃史料補遺下六〇頁/


今日の驚きがふたつ。

2016-09-13 18:54:40 | どこまで続くかこのブログ

  平々凡々な毎日であっても、びっくりするようなことがある日があります。今日はふたつありました、まずは深夜のこれです、

「アクセス」の閲覧と訪問者の数値、この数値でなぜ驚くか、それはこれです、

   日常普段見ている数値は500前後のPVと200未満のIPなのです。

  その日常から一気に290IPが出ていて、え!と思ったら、それどころではない2390PVなのです、この数字に関心を持つのは、発信した思いがどれだけの人に受信されたのかの関心に繋がります。記憶では200をやっと越えた程度が2、3回あったでしょう、ですから一気に300近くに及ぶとは、やはり驚いて然るべきです。

   2390PVはそんな驚きをはるかに超える値なのです。上の数値一覧がそれをひと目で示しています。一週間分の数字がいっぺんにやってきたのです。それが嬉しいのは1IP当り8.2PVになるという事です。正確なことはよくわかりませんが、1人が「kaeruのつぶやき」を覗いてみて一回だけでなく、1人平均8回以上もブログのこの日あの日と見て回ってくれた、ということです。それはこのブログに関心をもってもらえたということで、発信者として発信しがいのあることです。

   なぜ、こうなったか? 心当たりはありますが、くどくなりますのでもう一つの「驚き」に移ります。この写真の人です、手にしているのは黒田先生の文集です。

  

3月2日のブログで、こう「つぶやき」ました。

 

   今日はこの再会の日でした、この人はその旧友のひとりなのです、彼女が黒田先生の教え子だったとわかるためにはこの写真の説明が要ります。

パソコンに向かう黒田先生の姿、雑誌「女性自身」平成26年8月12日号のものです。今日の集りに「100歳でパソコンに向かう姿からお互いシニアとして励まされる」と言いたくて、テーブルに広げたのですが、Kさんに「黒田先生は中学の時の先生」と言われてビックリです。

   鎌倉の人だと思っていましたが中学の時逗子に住んでいた時期があったそうです、「世間は広いようで狭い」と周りからも言われましたが、これも「シニア情報生活」に身を置いていたからこその縁でした。

   今日のビックリの1つはブログでの広がりにビックリ、もう1つは人と人を結びつける縁のものであることにビックリです。


「第二次上田合戦の真相」その2

2016-09-12 19:57:39 | 「真田丸」

   まず、昨夜放映された「勝負」は通説によってはいませんでした。これは真田「幸村」でなく「信繁」で一貫させている姿勢に通じます。確か脚本の三谷さんがこの大河ドラマによって真田幸村ならず信繁を定着させたい、と述べていたと思いますが、第二次上田合戦の通説に対しても同じことがいえるでしょう。

   昨夜の場面で言えば、ナレーションが「(秀忠は家康の)真田討伐の命を受け」と説明していました。また劇中、本多正信のセリフに「(上田城を)じわりじわりと」攻めればよい、とありました、これは先に予定は無い、上田城攻めに専念するということです。

  「通説」はかなり深くしみ込んでいます、当然というか当たり前にというか私も上田にいた頃から今まで「秀忠の関ヶ原行きの途中寄り道合戦」と思っていました。専門家のなかではどうなのでしょう。NHKテレビテキスト「お城へ行こう」(2016年2月刊)の「上田城」にもこう書かれています。

【 第二次上田合戦でも〜、関ヶ原に一刻も早く到着するために早く決着をつけたいと焦り、〜】。

   この本が専門家の監修のもとに作られたことは当然で、講師は千田嘉博さん(奈良大学 学長・専門は城郭考古学)です。素人のkaeruでしたら「第二次上田合戦は秀忠の関ヶ原までの寄り道合戦で、それが通説でしょう」ですむでしょうが、専門家となるとそうはいかないでしょう。

  通説にもそれなりの根拠・史料があるはずで、その史料価値が他の史料によって否定されたということでしょう。そうなると昨日は略したこの通説に疑問を提起し、秀忠の動向に再検討を加えたのが笠谷和比古氏》の論著が気になります。

  そこで『真田信繁』の「主要参考文献」を見てみました。

  平山さんが導かれたという笠谷和比古さんの『関ヶ原合戦と近世の国制』が思文閣出版から発刊されたのが2000年、もう一つの『関ヶ原合戦と大阪の陣』(戦争と日本史17  吉川弘文館)は2007年と記されています。

   こうなると本を見たくなります、出版社のHPから、

   上の本は専門書という感じです、下の本は近くの本屋の棚で見た記憶があります。もしこの本が通説に疑問をていし「第二次上田合戦の真相はこうだ」というような内容だ、と知っていたら頁をめくってはいたでしょう。

   何れにしても笠谷さんの「第二次上田合戦の真相」について新論が出されて、10数年が経っています。学界のなかで新論がどう受け止められてのか知る由もありませんが、平山さんの本の最初の方に書かれている次の言葉を読むとこれからの課題だとも思えます。

「これまで信繁が発給した文書の基礎的研究すらなされておらず、また彼の生涯についても軍記物を根拠にした記述が目立っている。もちろん、軍記物以外に根拠がない場合が少なくないのも事実なのだが。」

   昨日【 だが事態は急展開する。】と書いて気を引いたままで終わりました、その後に触れずに終わるのも気が引けますが、又々「明日のお楽しみ」にして下さい。