正月を過ぎて間も無い休日、畠山記念館で「季節の茶道具取り合わせ」展を観た。
http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/
ゲストのいづつやさんのブログで紹介されていた本阿弥光悦作・赤楽茶碗 銘「雪峯」をどうしても見たいと思ったからだ。
新春の余韻が漂う静かな午後だった。こじんまりとした展示室には客もまばらで、ひとつひとつの茶道具をゆっくりと眺めることができた。富士山の形をした不思議な仁清の香炉、志野の和らぎのある肌が印象的な四方火入…と、目を惹く茶道具が整然と並んでいる。その中に素朴でありながらなんとも形の良い入った灰器があり、立ち止まってしみじみ観ると、何と楽長次郎作だった。素焼きのほっこりとした柔らかさと煤けた色合いが、そのやや丸みを帯びた広口の器を懐かしいものにしていた。多分、私は長次郎の作が好きなのだと思う。出光美術館で観た黒楽茶碗に真摯な…とも言いたくなるような深い精神性を感じてしまったからかもしれない。削ぎ落としたフォルムには緊張感が溢れ、黒釉は全てを吸い込み無に戻してしまうような深淵な黒だった。灰器にも用の美を追求しする真摯さがあった。
楽長次郎は千利休の指導で茶道具を作り始めたと言われている。最近茶碗の面白さに目覚め始めたばかりの私にも利休の美意識というものがなんだか見えてくるような気がする。今回も利休所持の熊川茶碗・銘「若草」が展示されており、さりげないながらも形の良さと地味ながらも渋く味わい深い趣があった。やはり、利休の美意識は極度に洗練されているのだと思う。先日も東京国立博物館で利休所持の花入れを観た。造形の妙と釉薬が彩る色合いが面白く、思わず見惚れる滲むような美しさがあった。利休の究極まで削ぎ落とした「侘び」という美意識が豪華絢爛の桃山文化と対峙し時代を席捲したことはきっと革命的なことであっただろう。なぁんて、茶道知らずが勝手に言ってしまって良いのだろうか?(^^;;;
さて、お目当て光悦作の「雪峯」は「若草」の近くに並んであった。「若草」のさりげない趣きに対し、赤楽「雪峰」は茶碗自体がその存在を強く主張していた。まず、全体に丸みを持った形の良さ、赤楽に白釉の醸し出す雪を想わせる景色の面白さ、火割れを埋めた金漆が絶妙に彩る雅さ、全てがやや厚みのある丸い茶碗に渾然と凝縮している。白釉が窯変した細かな亀裂は本当に峯に積もる白雪のようだ。火割れは雪解けの渓流だそうだ。サンリツ服部美術館の「不ニ山」を観た時も思ったのだが、光悦の茶碗には茶道具を越えた芸術を感じる。ならば、長次郎は?長次郎の茶碗には匠の極めた哲学を感じる。
ところで、今回の展示で一番印象的だったのは「真漆手桶形水指」だった。茶陶器の多い中で、この漆黒の水差は際立ったフォルムの美しさと凛とした端整な佇まいで、新春の清々しさを辺りに放っていた。手桶形の隙の無い洗練されたシンメトリーの造形、黒漆の深く艶やかな光沢。誰の作かはわからないが、江戸時代の匠の高度な技術と研ぎ澄まされた美意識が胸を打つ。この水差がそこに在るだけで対峙する自分の居住まいを正したくなるような…不思議だが「基本」がそこに在ると思った。「もの」に畏敬の念を覚えるというのも初めてで、新春に得がたい経験をもらったと思う。
今回の展示品の数々は新春に相応しく心を新たにしてくれる素晴らしいものだった。茶道具の他に、創設者畠山即翁の茶事をもとに、古筆、墨跡、絵画、工芸品等も展示されており、所蔵品の質の高さにも驚いた。また、購入した所蔵品図録で、楽長次郎作の赤楽茶碗・銘「早船」も所蔵していると知り、ぜひまた訪れて観たいものだと切に思っている。
http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/
ゲストのいづつやさんのブログで紹介されていた本阿弥光悦作・赤楽茶碗 銘「雪峯」をどうしても見たいと思ったからだ。
新春の余韻が漂う静かな午後だった。こじんまりとした展示室には客もまばらで、ひとつひとつの茶道具をゆっくりと眺めることができた。富士山の形をした不思議な仁清の香炉、志野の和らぎのある肌が印象的な四方火入…と、目を惹く茶道具が整然と並んでいる。その中に素朴でありながらなんとも形の良い入った灰器があり、立ち止まってしみじみ観ると、何と楽長次郎作だった。素焼きのほっこりとした柔らかさと煤けた色合いが、そのやや丸みを帯びた広口の器を懐かしいものにしていた。多分、私は長次郎の作が好きなのだと思う。出光美術館で観た黒楽茶碗に真摯な…とも言いたくなるような深い精神性を感じてしまったからかもしれない。削ぎ落としたフォルムには緊張感が溢れ、黒釉は全てを吸い込み無に戻してしまうような深淵な黒だった。灰器にも用の美を追求しする真摯さがあった。
楽長次郎は千利休の指導で茶道具を作り始めたと言われている。最近茶碗の面白さに目覚め始めたばかりの私にも利休の美意識というものがなんだか見えてくるような気がする。今回も利休所持の熊川茶碗・銘「若草」が展示されており、さりげないながらも形の良さと地味ながらも渋く味わい深い趣があった。やはり、利休の美意識は極度に洗練されているのだと思う。先日も東京国立博物館で利休所持の花入れを観た。造形の妙と釉薬が彩る色合いが面白く、思わず見惚れる滲むような美しさがあった。利休の究極まで削ぎ落とした「侘び」という美意識が豪華絢爛の桃山文化と対峙し時代を席捲したことはきっと革命的なことであっただろう。なぁんて、茶道知らずが勝手に言ってしまって良いのだろうか?(^^;;;
さて、お目当て光悦作の「雪峯」は「若草」の近くに並んであった。「若草」のさりげない趣きに対し、赤楽「雪峰」は茶碗自体がその存在を強く主張していた。まず、全体に丸みを持った形の良さ、赤楽に白釉の醸し出す雪を想わせる景色の面白さ、火割れを埋めた金漆が絶妙に彩る雅さ、全てがやや厚みのある丸い茶碗に渾然と凝縮している。白釉が窯変した細かな亀裂は本当に峯に積もる白雪のようだ。火割れは雪解けの渓流だそうだ。サンリツ服部美術館の「不ニ山」を観た時も思ったのだが、光悦の茶碗には茶道具を越えた芸術を感じる。ならば、長次郎は?長次郎の茶碗には匠の極めた哲学を感じる。
ところで、今回の展示で一番印象的だったのは「真漆手桶形水指」だった。茶陶器の多い中で、この漆黒の水差は際立ったフォルムの美しさと凛とした端整な佇まいで、新春の清々しさを辺りに放っていた。手桶形の隙の無い洗練されたシンメトリーの造形、黒漆の深く艶やかな光沢。誰の作かはわからないが、江戸時代の匠の高度な技術と研ぎ澄まされた美意識が胸を打つ。この水差がそこに在るだけで対峙する自分の居住まいを正したくなるような…不思議だが「基本」がそこに在ると思った。「もの」に畏敬の念を覚えるというのも初めてで、新春に得がたい経験をもらったと思う。
今回の展示品の数々は新春に相応しく心を新たにしてくれる素晴らしいものだった。茶道具の他に、創設者畠山即翁の茶事をもとに、古筆、墨跡、絵画、工芸品等も展示されており、所蔵品の質の高さにも驚いた。また、購入した所蔵品図録で、楽長次郎作の赤楽茶碗・銘「早船」も所蔵していると知り、ぜひまた訪れて観たいものだと切に思っている。