逗子市小坪の明るい住宅地に、木造軸組構法(在来構法)のなんともローコストの家が建った。しかしそれが建つまでにはいろいろと苦労があった。苦労は、私にお金がなかったという単純でつらい事実に、多くは起因していた。お金のない(つまり信用力がない)私が家を建てるには、お金を借りなければならぬ。しかしお金を借りるには信用力が必要である。この矛盾を乗り越えなければならないのだ。
銀行からお金を借りるには、私に十分な所得があることをまず証明しなければならない。通常は前年の所得を証明するために、勤め先の会社が発行する源泉徴収票か、役所が発行する所得証明が必要だ。ところが逗子市小坪のこの物件を買った1989年の前年1988年は、私は海外に住んでいて、日本での所得はまったくなかった。これでは前年の所得を証明出来ない。
また低利固定でお金を借りるためには住宅金融公庫の利用が必至だったが、それには100平米以上の土地を買うことが条件となっていた。しかし当時のまだバカ高い土地の100平米以上とは、その頃の私にとってかなりの負担を強いるものだった。
さらに今と比べれば住宅ローンの金利はものすごく高かった。ローンの返済額は、ローン総額×金利水準で膨れ上がる。まだ年収の低い若きサラリーマンであった私にとって、月々の返済額の多さは、借りることの出来る総額の少なさを意味する。
こうした非情ともいえる条件のもと、ローンには通常掛け目というものがあった。土地と建物をローンで買ってそこに引っ越すには、土地建物の価格以外にローンの保証会社の費用、生命保険、火災保険、不動産会社の仲介手数料、外構費用、下水道などの接続費用、引越し費用等が必要になる。しばらくすると不動産取得税も支払わねばならない。一方ローンで借りることの出来る金額は、土地と建物のみを合計した金額に一定の掛け目(例えば0.8)を掛けたものだった。貯金がゼロに等しい当時の私にとって、諸費用込みで必要な資金総額の一部、例えば7掛けしかローンを借りられないということは、住宅ローンでは家を買えないということを意味した。
さらに当時は国土法というものがにらみを利かせていた。80年代の土地高騰に危機感を持った建設省(現国土交通省)が、不動産取引価格に一定の上限を設けていた。私が買おうとした土地もそれに引っ掛かり、土地の売買にストップがかかった。
お金がないうえに、法律的に売買にストップがかかったが、それでも最終的には取引が成立した。上記困難のすべてに対する解決法があり、それはすべてシッカリ者の不動産会社営業マンが解決してくれた。外見はなんとも頼りなげなのに、次々と困難を解決する営業マンに私は感心した。これなら高い仲介手数料(物件価格の3%プラス6万円。加えてその消費税)を支払っても良い、という印象だった。