先日行った子育地蔵尊 人がいて写真が碁れなかったのでHP「寺社 in Tokyo」より使用させていただきました。
子育地蔵尊の由来などについてネットから寄せ集めてレビューしました。
元禄の末頃小泉源兵衛と言う人物が訪れ鉄砲玉を作り火薬の番を始めました。
源兵衛さんは、この地区を開墾しこれに同心する人達28戸とともに集落を作り、
この周辺は、以後「源兵衛村」と呼ばれるようになったようです。
源兵衛さんとその縁者の供養のために享保11年(1726年)にこの地蔵尊が建てられました。
このお地蔵様のご利益は、子宝・安産、病気治癒、商売繁盛、交通安全など多岐にわたり、
願いがかなうお地蔵様として地域の人から大切にされ、近年では“子育地蔵尊”として親しまれています。
左手にある庚申塔(こうしんとう)には、寛文13年(1673年)9月12日とあり、三猿が刻まれています。
二基の馬頭観音は、江戸時代坂道の多かったこの地域の「馬力屋」が、馬の守護仏として奉ったようです。
奥にある彰忠碑石(しょうちゅうひせき)は、四国松山と高地の間で採掘される大変珍しい「伊予の青石」
で作られた、日露戦争の凱旋記念碑です。源兵衛村から7名が従軍したことを記念して作られました。この石は、
関東大震災でも倒れることは無く、当時、この地蔵尊に寝泊りした被災者もいたそうです。ちなみに、この碑の
揮毫(きごう)は日露戦争で活躍した奥保鞏(おくやすかた)大将(後、この戦い等の功により伯爵、元帥)に
よってなされています(この間の事情、活躍振りは司馬遼太郎著「坂の上の雲」に詳しい)。
東京空襲で、戸塚地域がほとんど焼け野原になったとき、この地蔵尊の周辺だけは、奇跡的に焼け残り、
みな、お地蔵様が守ってくださったと感謝したそうです。
源兵衛村は、戸塚町、西早稲田と地名は変わりました。しかし、源兵衛村の先人たちのおかげで、今がある
ということを忘れないよう先人の残した地蔵尊を後世の人々に伝え、継承されてきました。地元で愛される
子育地蔵尊は、西早稲田商店会の管理のもとに3年に1度大法要が行なわれています。
娘の小学校のPTAで広報を担当しているとき、小学校の歴史を調べたことがあり、この辺一帯が軍の火薬庫だった
ことを知りました。箱根山もせっかく尾張藩下屋敷のスケールの大きな庭があったようですが、軍関係の施設に
なっていました。(陸軍学校)そのため広大な庭は消滅したということです。何だらブラタモリみたいになって
来ましたね。
江戸時代には百人町鉄砲隊が新大久保に住んでいて、源兵衛さんは結構やり手だったのでしょうね。
また、高田馬場は1636年に江戸幕府が馬場を作り、高田馬場と名付けたとなっています。馬具関係の
お店や職人もいたのでしょう・・ 将軍が鷹狩をしたと言うおとめ山も近く、江戸の名残がたくさんあります。
日本史にはあまり興味がなく世界史が好きでしたが、この年になると身近な日本の歴史が面白くなって
来ました。古地図片手に街を歩けばもう立派なシニアです。TVドラマの「仁」で今の写真から同じ場所がどんどん
時代が遡っていく、オープニングが面白かったです。今とつながっている過去。
今回子育地蔵尊の所に徳川慶勝のことが書かれていて、箱根山(新宿区戸山)にあった尾張藩下屋敷のことは
知っていましたが幕末にどのように生きたか興味を持ちました。インターネットで調べましたが、あまり調べられて
いないのですね。小説がいくつかありました。幕末は複雑な糸が絡み合って会津では不幸なことがありましたが、
江戸城無血開城と言う大きな犠牲を払わない革命となりました。そこに大きな役割を果たした人です。
篤姫がこの近くに一時身を寄せていたことを初めて知りました。
徳川慶勝は荒木町の高須藩上屋敷で生まれたとのことで、高須藩は尾張徳川家の支流で、高須4兄弟と言って
歴史上有名な人物たちを輩出しています。
「幕府も弟も見捨てた尾張藩・徳川慶勝の非情な決断」と言う記事もありました。幕末の徳川サイドの人達
についてはNHKの「八重の桜」でずいぶん描かれていたそうです。あまりちゃんと見ていなかったけれど
会津藩だけが何ともかわいそうだった記憶だけあります。敗者である会津藩、会津若松の武士たちは
国替えで不毛の地青森に追われてしまったということを思い出します。そこで何も産業を興せず、六ケ所村へと
歴史は繋がっています。
写真美術館でよく日本の歴史的な写真を見ましたが、そこにも多くを残してくれた徳川慶勝だったのですね。
高須四兄弟 左から定敬、容保、茂栄、慶勝
慶勝は尾張支藩の高須家の出身。男兄弟は10人(うち4人夭折)弟たちはすべて大名家に養子に行き、3男が
浜田藩越智松平武成(23歳で早世)、5男茂栄、高須藩主時代は義比(よしちか)と名乗り、尾張藩主は茂徳
(もちのり)そして一橋徳川家を継いで茂栄(もちはる)と名乗りを変える、7男が会津藩主で京都守護職の
松平容保(かたもり)、8男が桑名藩主で京都所司代の久松松平定敬(さだたか)、10男が 高須藩主松平義勇
(よしたけ)は病弱で表面に出ず。
慶勝、茂栄、容保、定敬が幕末に活躍したことで、高須4兄弟と呼ばれています。ちなみに慶勝と容保は12歳、
定敬とは34歳の年の差兄弟。
徳川慶勝は、キラ星のような人材が輩出した幕末明治維新の時代に、あまり目立っては
いないけれど縁の下の力持ちのような仕事をしました。山内容堂や親しかった松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬の
四賢侯にも入っていないし、弟松平容保のような悲劇の主人公のような派手な存在ではありませんが、長州征伐を
ゆっくりと行軍し長州の恭順を取り付けたり、錦の御旗を立てた官軍のために、自藩の佐幕派を制圧するという
犠牲を出し、東海道沿いの譜代藩に新政府に付くよう説得し誓約書を取り付けたおかげで、無事江戸まで抵抗なく
行きつけたのは慶勝の功績でしょう。また慶勝の残した写真が貴重な文化遺産となっているのも見逃せないことです。
まさに明治維新の陰の功労者として見直されるべき人だと思います。
激動の時代の尾張藩主「徳川慶勝」ー江戸城無血開城の陰の立役者 より
「御三家筆頭の尾張藩が新政府に寝返った理由」にあるように慶勝は「幕府も弟も見捨てた尾張藩・徳川慶勝」ではなく
その裏には幕府に不満を抱き続けた尾張藩の歴史に配慮しつつ、政府に敵対した徳川一門の存続も果たすことに命を
かけたのだと思いました。