按摩師
北斎漫画に出てくる「按摩師」のワンカットです。
日本の按摩と鍼灸の歴史は、「古墳時代に朝鮮半島から医療を伝えた。」とあって、奈良時代の大宝律令(701年)の中に、「医疾令」が定められました。
当時、宮内庁の中に「針博士」「針師」「按摩博士」「按摩師」を置いた。と書かれています。
江戸時代には、山瀬琢一に学んだ、「盲目の鍼灸師」杉山和一が日本独自の和管(針を刺す時に管を当てて管の中から針を刺す)を発明。
当時の江戸幕府に、視力障害者の収入源として鍼灸学校を造らせました。
やがて杉山流の勢力は全国を席巻することになります。
和一は、総検校としての地位を不動のものにし、杉山流の鍼灸学校数は全国で45ヶ所にのぼったといわれます。
按摩師や鍼灸師の名前が、◆一、 ◆一等と言われるのは、山瀬琢一や、琢一に学んだ杉山和一の名前からきているのでしょうか。
それにしても…この漫画の女性のきもの姿とかんざし…素人さんではないみたい。
下の絵は、葛飾北斎「新板大道図彙」 馬喰町
江戸時代後期(1825年作品)の按摩師の施術の様子がうかがえます。
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油売り
北斎漫画を見ていると、江戸時代後期の確かな生活のにおいがしてきます。
江戸時代の舞踊の着付けをしている私たちにしてみれば、間違いのない時代考証が出来る訳です。
北斎という「稀有の浮世絵師」を通じて楽しく学べるのは、大変な収穫です。
油を売る…サボるの語源
この漫画は「油売り」です。
油の量を計って買い手の器に最後の一滴まで移すになかなか時間がかかって終わらない…まるで仕事をしていないように見える…俗に、サボることを指して「油を売る」と言うのは、この「油売り」の情景から言われるのです。
皆さんも「油を売る」ときはありませんか?
油売りの装いは、筒袖に股引で、腰には煙草入れ、素足に草鞋(わらじ)ですね。
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「男髪結い師」と「女髪結い師」
髪結いの歴史は男髪結いが古く、自宅で開業するのを「髪結い床」と言っていましたが、出張で出かけていた髪結いもいました。男性はひんぱんに髪結い床に通っていたようです。
一方、江戸時代の女性は、一部の上層階級をのぞいて、「髪を自分で結うのは、当時としては嗜み(たしなみ)」だったために、自分で結っていました。
女髪結いの歴史はずいぶん遅れて、1700年代に始まることになります。
何度か「女髪結いの禁止令」が出ますが、「売色を行なう者がいた」ことや、「自分の髪を他人に結わせるのが贅沢と判断された」など、その原因も諸説があります。
漫画で見る限り、一般の職人に比べて、力仕事をしないためか、襦袢のような下着も身につけているように見えます。
鏡は高価だったために、手桶に満たした水の面に、自分を映す姿が印象的ですよね。
歌舞伎舞踊も描いています。
下は、鎌倉時代から伝わる「近江の国の怪力の女性…お兼」を北斎が描いたものです。絵の右上に…(近江國貝津ノ里 傀偎女 金子 力量)とある。裾長で、帯は前結び、袖は薙刀袖。 (現在の踊り衣裳は、この絵と異なります。)
この物語を題材にして、歌舞伎舞踊、長唄「近江のお兼」…「…色香白歯の團十郎娘…」と謡われるところから、別名「團十郎娘」とも言われる、強い女の踊りが生まれました。
踊りの内容
場所は、近江八景・堅田付近…お兼が出てきて、高下駄で手綱を踏んで暴れ馬を止めます。そのあと、暴れ者の琵琶湖の漁師を相手に大立ち回り。クドキから盆踊りへすすみ、最後に晒しの布を両手で振って幕となります。
下の写真は、私共の衣裳方が着付けた、長唄「近江のお兼」です。
衣裳は、この形が現在の定番になっています。
晒しを振る時は高下駄を履きます。
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江戸時代の漫画が勉強になる➠馬の乗馬
富嶽三十六景を描き、西欧のドガやモネなどに大きな影響を与えたといわれる葛飾北斎。
1760年(宝暦10年)、江戸本所割下水に生まれ、1849年(嘉永2年)4月18日、浅草聖天町「偏照院境内」の仮住まいで90歳で亡くなるまで、100回以上の引っ越しをくり返した稀有の変わり者の画家です。
富嶽三十六景以外で、特に人気のあるのが「北斎漫画」です。
動植物はもちろん、市井の生活を見事に描いた素晴らしいもので、衣裳や江戸時代の生活研究にも事欠きません。
これから時々、北斎漫画の紹介をこの紙面で掲載していこうと思います。
まず最初は「乗馬の図」です。
よく見るとわかって頂けると思いますが、馬の右側から乗り降りしています。これは身分の上下を問わず変わりません。
しかし明治維新後、西欧式の軍隊以降、馬の左側から乗るようになったのです。
時代劇の映像で、馬の左から乗るような侍がいたら、時代考証の担当者や監督がわかっていないということかもしれません。
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