旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

244 新たな大阪 再発見 

2012-03-24 05:45:11 | 散策
 初めて降りる駅、JRの‘玉造駅’そして初めて行く地域でした。私のあてにならない地図によると左側、どちらから見てか、つまり西へ、とりあえず細い商店街に入り南へといい加減に行きました。磁石が必要になって来る程の狭い商店街で、誰かに聞こうと思っていたら右(西?)側の広い道路の向こうに其れらしき神社が見えました。急ぐことは無いので、そこを目指して歩いて行きました。

 第一目的の地、三光(さんこう)神社を見つけました。2-3日前迄知らなかったので偉そうに言えませんが、真田幸村が大阪冬の陣の時に大坂城の出城を作った所であるらしい。この前信州の真田迄行った所ですが、石段に六文銭の旗があり、境内には真田幸村の武者姿の立像がありました。一番見たかったのは、大阪城迄通じていると言われる洞窟でした。入口は鉄柵で入れない様にしていましたが、石室状の約1メートル50と1メートル程の石穴で、中を覗いて見ると2-3メートル程入ってそこからどうなるか分かりませんでした。映画のプリンセス トヨトミの作者はここを見たのに違いないと思い、これだけでも大きく夢一杯になりました。その上に、大阪らしく?本物もこんなだったのかも知れませんが、安っぽい6文銭の矢盾がその上に飾ってありました。

 神社自体は小さな物ですが、裏側は公園になっていました。左側を上って行くと、また柵があり、何かと覗くとお墓でした。お墓自体、高さはそうでもありませんが、通常より大きさが半分位の石のお墓が沢山整然と並んでいました。遠くから良く見ると、先の戦争で亡くなった兵隊さん達のお墓でした。
合掌

 この辺りと言うか、大阪全般焼け野原になったのですが、ここも終戦直前に焼けてしまったと記述してありました。京都に住んでいると嘘のようです。京都の我が家の後ろに爆弾が一発落とされたのですが(伏見にも1発計2発と聞いています)、それでも大変な事だったと聞いていました。この辺りは凄い数の爆弾が落とされたのでしょう。
 
 比較的に広い道路を円珠庵(幸村が冬の陣の時に陣所を構えた所)を探して心眼寺坂を行くが、地図の様に無いので通りすがりの人に聞いても住んでいないので分らないと残念ながら諦めました。
 この辺りは道路が大阪らしく無く、お寺も(勘違いしていましたが、大阪は寺が多いです)、学校も多くあり、良く整備されていて今までの大阪のイメージは変わりました。ここが円珠庵かも知れませんが、地図と違ったのですが、お寺があり6文銭の旗が立っていました。

 その整備されている道を、北に行くと、これ又多分、見て見ないと分らない広い敷地に米国のハワイにある近代建物風、立派なアーチ型の門に右側に大阪女子学園、左側に1884年創立のウヰルミナと表札が上っていました。中を見られず残念でしたが、そのまま行くと、道路を挟んで、広い駐車場がある聖マリア聖堂がありました。マルッキリ今までの大阪のイメージ(どんなイメージや!済みません一人突っ込みでした)が変わりました。大阪の人、誠に御免なさい、大阪にも文教地区があるのです。

 青刻(きざみ)昆布発祥の地の石碑が玉造越中公園にありましたが、白黒ドラマ横堀川で片岡仁左衛門がこれだけは覚えている、多分誰も知らないと思いますが‘これが真昆布や’と言っていた昔を思い出しました。

 団体さんが何かを見ているので、そこを見ると、昔の細川邸があって、明智光秀の娘で細川忠興の妻ガルシア夫人が、忠興が徳川家に見方した為に、石田光成に大阪城に人質として入る様に言われてのでした。それを拒否して、洗礼を受けていたので自殺は許されないので、ここで家臣に胸を突かれたと言う話しのゆかりの地越中井と言う井戸の跡でした。その近く聖マリア聖堂にガラシア像があります。

 前回が超庶民の町でしたら、この辺りは中級以上の家が多くあり、初めての綺麗で整備充分の大阪、見直しました。

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243 まだまだ大阪

2012-03-17 07:47:32 | 散策
 動物園の反対側で、昼ごはんを食べました。表に関西ウオーク等3誌に載っていた記事を張り出してあるのに釣られて入りました。と言いますのも、これまで入ろうと思ったこの地域お店一般にサンプルがほこりも被って何十年もたった様なものばかりで入る気がしなかったのです。

 表に切り抜き写真が貼ってあって、店主も比較的に若い人で気が良さそうに見えたので、考えた末にお腹も減ったので入りました。焼酎をロックで注文して、あてに広島直送の牡蠣のフライが680円でしたから、丁度良いなと思いました。店主は思った通りの人で、多分お母さんと思われる、お婆さんと二人でやっていて、カウンターに座ったのでした。
 後から来て隣に座ったのが、今日が初めて集まった6人の団体で、自己紹介等聞きたく無くても聞こえて来ると言う狭い店でした。そのグループ、貧困を考えると言う大学のサークルグループで色々な学校から3対3の男女が集まっていました。なかなか上手いアプローチ?でした。

 昼食を終わり、また動物園前から通天閣に入って行く事になったのです。ここから急に人通りが多くなります。動物園前も通常の凄い下町ですが、今まで行った所とは比べられないでした。雑多な物を露店で売っている所を、さらに狭いガード下を抜けると幅3メートル足らずのジャンジャン横町となります。東京の人は先ずイメージがわかないと思いますが、上野のアメヤ横丁を狭くした短い道で生鮮食品を取り扱っていないと思って下さい。この前よりも天気が良いのか(今考えると空が見えてたか、多分アーケードがあった様に思います。)人が増えて串カツ屋さんとかに列を作って、広い将棋屋さんも混んでまして、大変な人人でした。

 そこで思い出したのが、高校時代アメリカのチャタヌーガから来た私の英語の先生が京都の河原町通りで人が多いのにビックリして今日は何のお祭りかと驚いていた事を思い出しました。ここを見たら、先ずビックリして何と言ったでしょう。

 ジャンジャン横町を過ぎると、少し広くなったいて若い労働者層の大阪人が着る服とかも売っていました。新世界は昔ルナパークと言われてビリケンさんが有名で幸福のシンボルとなっています。知りませんでしたが、新聞の記事に、そもそもビリケンさんは大阪に来る2年程前に銀座にあってと言われてまして一時期はやったそうです。通天閣が見える所迄来ると益々人が多くなって人の間を通って行く事になりました。

 反対に回っていますので、人通りも多いように感じたのですが、通天閣では一発屋と言ったら怒られるかも知れませんがこの頃めったに見なくなった安田サーカスの団長や黒ちゃんの等身大のマネキンがあり、団長のふんどしが色変わりしてました。又、この正面口は前回と同じく広くがらんとした通りで、スーパー等前回見て無い所を見ましたがさして新しい物は無かったでした。

 そこから電気屋さんの日本橋街になります。前の夫婦が歩きながら聞きたくもない大きな声をだして、口喧嘩をやっていました。東京の秋葉原とは規模的に大分違うのですが、昔と違うアニメを扱う店が目立ってきました。古いビルの高島屋別館の中に入ろうと思って、家具を売っていたのに今は結婚式の案内等やっているのに気付いて関係無いと止めました。

 黒門市場が右手にありましたので、2‐30年ぶりに行きました。日曜日でもあり東京の築地と違い活気に欠けるように思いました。テレビで見たふぐの店等ありましたが、美味しそうな豆腐を買って、そして違うお店で、色々な種類の白天を買って帰る事にしました。この辺は難波から少し外れているのでこの道路以外は日曜日と言う雰囲気でした。
 
  
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242 紹介されない大阪

2012-03-10 06:00:17 | 散策
 実は前回雨が降ってしまって行けなかった飛田に行こうと思いまして、珍しく行くのに本を調べてからと思い、本屋、そして図書館で探しましたが殆ど見つかりませんでした。西暦2000年をもって国の登録有形文化財となった大阪で良く知れている‘百番’が遊郭のお店を買って有名になったので、もう少し本に載っているかと思いました。
35年程前に友人に面白い所があるからとついて行ったので、もう一度、前から行ってみたかったのでした。以前夜に行って雰囲気は知っていますので、私自身一人が夜に行くのはちょっとはばかれる?と思って、朝、家をでました。飛田と言うだけで、良く行ったなと言われます。その様な所です。

 動物園前を降りて、通天閣と反対側に行くと商店街に入りました。多分日曜日でもあるのか、それとも普通にシャッターを閉めているのか分からないですが、寂れた商店街が長く続いていました。ニュ-ス テン(東京の方は分からないでしょうが、夜5時30分から毎日やっているニュ-ス番組です)で金曜日の6時25分位から映る、スーパー玉出があるのでビックリしました。こんな寂れた所にあったのでした。もう一つのスーパー玉出が、道路を抜けて行くとあったので更に驚かされました。こんなスーパーの一つで主婦とシェフの対決の為、TV番組で買い物してるとは信じがたいでした。自分が、こんな早い時間に食事を終わりTVを見ているのも信じられません。

 道行く人が、自転車に乗っている人の方が歩いている人達より多くて、横道に違う商店街があり、アーケードの屋根も破れている所もあって、なんとも静かなものでした。細い道に入ると、角に若い人が立っていて、そこを曲がると狭い家の前にもう一人立っていました。そこに何があるのか、朝にビールを持った人が入って行きましたが、なんとも不思議な怖い光景でした。
 
 商店街を外れると超庶民の家が2-4メートル幅であり、上の方に狭い道路をまたいでオーエス劇場の古びた看板がありました。古びた日焼けしたノボリが3本あり、大衆演劇場があったのでした。森川竜馬の一日座長公演とあり、切符買う所には御入場料金1,300円、上演時間が書いてありませんでした。
又、戻り しばらく行くと誰が買うのか時計屋さんに何十万円もする時計が陳列台に並んでました。

 そして阪神高速の下を抜けて行くと飛田となります。まず有名な百番を探そうとしていたら、行き倒れのお婆さんがいたりして、警察官が来てました。大体3‐400メートル4方程の所に、今までと違い良く整備されている広めの道路があり、各道路何メートルかの幅で、規則正しく2階の腰壁から突き出た屋号の書かれた店の看板、1階は玄関脇に提灯、両引きの玄関扉があって、その脇に格子窓、さらにその隣に通用口があります。昼前なのに、もう開いているお店もありました。
 比較的に綺麗な所でしたが、入口の扉は開いたままで、上がりかまちに座布団が敷いてあり、二人の女性がいて、一人が40‐50歳位のお姉さんがやりてばーさん宜しく、ちょっと目が合うと声を掛けてきました。もう一人若い女性が少し派手な服装で、ニッコリ笑って座布団に座っていました。服装は現在的ですが、まさに大正時代(知りませんが)にタイムスリップしたように思われました。
 戸が開けっぱなしになっているので、どの家も石油ストーブが入ってましたが、夜はライトアップされるに違いないからやっぱり昼間来て良かったでした。お姉さんが若くまぶしく美しいので思わず目を奪われそうになりました。行かないと分からないです。

 広めの道路を暫く行くと少し離れて‘鯛よし百番’があり、昼間もやっていると思ったけれど、夜だけ予約のみとなっていました。そこだけ立派な飛田 百番とインターネットで調べて下さい。

 暫く歩くと急に立派なマンション群が出てきました。そして109で有名な阿倍野キュウズモールが目の前に出てきました。さっきの西成区から再開発の済んだ阿倍野区に変わるだけで、黒沢明監督の‘天国と地獄’の様な有様でした。
 
 
 
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241 星一 から思いつくまま

2012-03-03 06:00:01 | 散策
 星新一の明治人物伝を読みました。暇つぶしに読んだ本ですが、伊藤博文、新渡辺稲造等の人物を10人紹介しています。その中のエジソン、野口英世は有名ですが、花井半蔵段々分らなくなって中村正直、杉山茂丸に至っては始めて目にする偉大な人が出てきました。これら総ての人が明治の人で、星新一のお父さん星一と関わりあった偉人の人達です。

 これを読んで古くは、遣唐使や遣隋使の頃は、海外に行くのに命を掛けて行ったのですが、どんな船で行ったのか、又、幕末はどんなだったでしょうか疑問が増えて行きます。皆向こうの知識を得る為に人は生死をかえりみずに海外に行ったと思うのでした。50年数年前に、兄が沖縄まで船で行って船酔いが大変だと言っていました。そして明治はどんどん遠くなりました。

 私は(勿論命等かけていないけど)京都から初めて出て、欧州に当初2人で行く予定でプランを立ててましたが、急にもう一人が行かないと言い、最初からプランを作りなおす状態でどんな気持ちで行ったか今思い出せません。私の海外に船で出た時は、たかだか40年程前の事でした。
 
  星新一は本の中で、素晴らしい新しい形で、父親を紹介した記録だと思います。父の星一の事は実際直接には本の中で殆ど述べられてないですが、歴史上の人物10人の記録を一人一人充分に丹念に調べ上げて、尚且つお父さんの苦労や素晴らしさを読んでいる内に、さり気無く分って来ると言う書き方でした。これ程、明治の有名な人に関わったと言うのは珍しいです。アメリカに行ってる日本人が殆どいない時に行っていると、誰でもこんな人とお付き合い出来ると勘違いします。そんな人たちがいたのでした。

 武家社会の色が大きく残っている明治に生きた人は、昨日まで黙っていても食い扶持には困っていない人、その人に仕えた人も良し悪しは別にして大変だったと想像できます。この人をと見込んだ人なら幾らでも肩入れすると言う人もいたのは、今となっては夢の世界です。金銭感覚を抜いての見返りを求めない投資でした。

 話は飛んで、私は言うのも父に申し訳なく、親の記録を廃棄してしまった人間です。テープレコードに取ってあった父の今となっては遺言をげんが悪いと消してしまって、その父親が欧州にいた時に亡くなったのでした。その時に家族が私のいる所の電話番号がどうして分ったのか、今になって不思議に思います。自分自身が、父の年を越しての疑問です。
 そもそも欧州の私の番号を知るのに大変戸惑った事だろうと、現在の様に携帯電話で何処にいても気軽に通じるのが普通になって、地球も狭くなった事を痛感せざるを得ないのです。電話が掛って来て、それを受けた時に確かHANG UPと言われて何度も受話器を置いて交換台の人に注意された事も思いました。その時は誰も回りに聞く人がいないのですから、何度かめで分ったのでした。仕方なかったですが、父親の死とは考えられない事でした。

 又、母親に国際電話を掛けた時の事、家にいなかったので母親の友人宅まで電話をつないでくれると言う親切な事がありました。コレクトコールで電話を掛けた為にその友人宅迄請求書が行って日本に帰ってから笑い話で言われました。電話交換の方も親切にフォロウしてくれたに違いありません。

 空港勤務をしている時に、クレイムの電話を私が受けただけで数人の人が、電話を掛けて自分の電話番号だけ言って、直ぐに電話を切る人がいたのでした。トールフリーの電話は無いので、私の場合は再び電話を掛けて来るのを待ちました。今勤めたとしても、待つ事に違いありません。やっぱりこちらからは電話を掛けないでしょうね!
 電話の話で終わりましたが、いつもの様に思いつくまま皆さんに付き合わしました。済みません。
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240 ボストン 美術館

2012-02-25 06:00:20 | 散策
 ボストンは初め会社の方が東京から直接飛ばすとプランをたてていた程の地、現在松坂で有名、私もそれに乗っかって行きました。そもそもマサチューセッツ州はケープコッド等有名人の別荘地で有名で、特にアメリカ35代大統領ジョン・F・ケネディのゆかりの土地として知られ、それをセールスしてきましたが、独立の舞台になった事でも有名です。しかし、何時もの如く自分が行った事が無いのに情報たけで営業していました。済みませんでした。

 ボストン市内を見る為に、地下鉄を駆使して見て廻りました。そもそも予約してくれたホテルが中心部迄歩いて行ける距離では無かったのでしたが、地下鉄を利用して非常に便利に使いました。

 空港からホテルまで何時もの如くタクシーを使い、その後は殆ど地下鉄、一部をタクシーを使いました。地下鉄は4路線で色分けしてあり、観光客も簡単に利用できるのでした。地下鉄と言っても大部分は路面で、地下部分は中心部のみでした。治安も観光客がいる所は、悪いと言っている割には、非常に良かったのでした。ビーコンヒル等昔のままの建物があり観光には最適でした。

 ボストンに着いて外国で初めて大量の日本の芸術作品を見ました。私は以前外国にある美術品を見る事は、愛国心と言うか残念淋しいと思っていました。その考えが変わったのは最近の事で、特にここを訪れた時でした。

 ズート前、まだ会社に入って3-4年の時に東京在住のアメリカ人のボスと言うより、非常に優しい人がいました。その人は1ドル360円当時から日本に20年以上住んでいて骨董品を集めるのが趣味の人でした。六本木のしょうしゃなマンションの彼の部屋に訪れた時に、最初にその国宝級の豪華な屏風は立派な物で、彼にすれば非常に安かった骨董、殆どその屏風しか記憶に残っていない程の物でした。他のものも素晴らしい物ばかりでした。かなりな物を既にアメリカへ持って行ったそうで日本人として本当に非常に残念な思いをしていました。最終的に総てを持って帰り、美術館か博物館を現地で開いたと聞きました。ただ、その時に、私がその価値が分ったと言うとかなり心細く殆ど分っていなかったでした。

 しかし、良く考えると貧乏だった日本人が仮にこの美術品を持っていたらと思うと、2足3文、ひょっとして処分していたかも知れません。やはりその価値が分る外国の人に持って行って貰った方が作品の為に良かったと思う様になりました。現在は日本人が金持ちになって買い戻したとか言う話を聞く事がありますが、それはそれで良いと思います。誰が持とうと価値が変わるわけではありません、外国の美術館や博物館に大切に保存してあって良かったと思います。
 そんな考え方が出て来たのがボストン美術館です。確かに日本人としては、ここにある作品は悔しく惜しかったですが、素晴らしい日本美術品が今や外国だけで見られる浮世絵など数多く展示してあります。市心からちょっと離れますが行って下さい。

 街中は地中に埋め込んであるフリーダムトレイル自由の道のマークから歩くと約5キロの道のりに16ヶ所の歴史的な建物や歴史にゆかりの場所を見ることが出来ます。そこからちょっと行くとウオーターフロントで買い物やノースエンドで17-8世紀の家並みを見て、レンガの落ち着いたビーコンヒルで洒落たレストラン入るのも良いでしょう。

 日本の美術品を再発見の街ボストン、行ける機会を見つけて行って下さい。
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239 京都 永遠に不滅です (馬から落ちて落馬)

2012-02-17 06:59:24 | 散策
 東京から兄が来ましたので、年ととも(友)に先祖を敬いたくなるのか、墓参りに再び行きました。今回は清水さんを回らずに我が家の次に、大谷さんの姉のお墓参りに行きました。

 実家のお墓の近くにあって裏から入ることとなりました。姉が永代供養をしてあります大谷さんで、受付で既に登録済みのカードと供養としてお金を入れた袋を差し出すと受付終了となり、広い待合室で暫く待つ事になりました。ここはかなり規模が大きくて事務化しています。テレビには親鸞聖人の漫画がかかっていました。これも前回なかった様に思いました。そして待つ事約15分、若い僧侶が参加者の名前を読んで我々も含んで15人位の人達が僧侶について行く事になりました。
 
 大きな障子扉を引くと、古い梁は茶に新たに塗って新しい礼拝堂になっていました。前来たときは、靴を脱ぎ座敷に座り大変でしたが、今回はマルッキリ新しく、椅子が100程置いてあり私にとっては便利な近代的なシステムになっていました。しかし、ありがたみが薄れたように、建物と仏像は本物に違い無いと思うのですが、金箔等安っぽく感じました。焼香のやり方等の説明があり、新たに3人の僧侶が音響効果抜群にお経を詠む声が響き渡りました。
 法話を聞いた後、お昼にしようと以前に友人に連れられて来た事がある、寺町丸太町の北東側にある、珍しい中華の懐石を‘マダム香蘭’で頂きました。町屋を少し修繕して、靴を脱いで普通の家にあがる様な雰囲気でなかなか良いので機会があれば行って見て下さい。2,600円のコースを頂きました。
 
 再びお墓で母方のお墓が、七本松下立売りにあるのでの初めての墓参りをしました。特に特徴は無いけれど、私の行ったどの墓場より卒塔婆が多いのが、どこか東京で見た様な雰囲気でした。モット深くお墓研究して墓研究者となれば良いかも知れませんが、私の場合はやっぱり食べて行くには厳しいでしょう。自分で納得。
 
 近くにある達磨寺はお祖父さんが清水参道で買った大きな達磨が預けてあるはずなのですが、どうなっている事やら今は分りません。この辺りは、やたらお寺が多い地域でした。ついでだからと、梅の季節でもないのに中国人が多い北野さん迄歩きました。受験を終わったのか、これからなのか分らない人達で結構な人でした。

 電話案内で引越し先が不明な親戚を見つけ、以前の広いだけの古びた家が売れたので知恵公院の素晴らしいマンションを訪ねました。途中で我々兄弟が習字を習ったお寺は、今も昔と変わらずにあったのには懐かし思い出が一杯でした。ついでに近くにある古い情緒たっぷりの山中油も、そとにある水車を見ましたが、生憎と休みでした。代わって昔の面影が見当たらない整備された美しい二条公園を見て来ました。今は無くなってしまった、石でできた大きな滑り台、その横で食べた‘べた焼き’は思い出にのみ残るものとなりました。

 夕食は高倉の四条下がった所で、路地裏にある京都居酒屋 ‘お数いしかわ ’で食べました。本当の路地(私は‘ろーじ’と言っていました)で、5時30分の予約にも関わらず、もうお店の前は予約の人達が何組もいました。昼食を食べた所が、庶民の家なら、ここも庶民ですが下町の庶民の家と言う所です。普通ならこんな場所に新しく食べ物屋は作らないですが、それもお好み焼き屋さんが精一杯の雰囲気に居酒屋とはナカナカ考えたものだと感心させられました。1階はカウンター形式で2階もオープンになっていて座敷で、長屋風な雰囲気を持ちながらサンの壊れも残してあって面白い所でした。大体予算は飲み代込みで4,000円位です。一度行って見て下さい。

 今日は我が家のお墓参りにお付き合い有難う御座いました。今回も兄におもいっきり頼りました。
 (表題の‘馬から落ちて落馬’は長島選手が‘巨人軍は永遠に不滅です'と言ったのを思い出すので書いただけで、特に意味はありませんので、あしからず)
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238 バベットの晩餐

2012-02-11 06:00:57 | 散策
 ユトランドはヨーロッパからでたデンマークの半島です。その北の端の小さな村であった話でバベットの晩餐会’は私の沢山の映画を見た中でトップランクに入る作品です。前回のデンマークの話の流れで是非とも紹介したいと思います。

 そもそも最近映画を見る気にならなくなったのです。GyaO!で無料映画を見ていたのですが、それも面白くなくなりました。何を見たか忘れてしまいますが、多分、最後に映画を見たのがプリンセス トヨトミになると思います。如何に良い映画と言っても、堤 真一、役所 広司、西田 敏行等、出てくる俳優が何時も一緒では考えさせられます。監督で言うと、三谷 幸喜が目立ってますが、ラジオの時間(多分)等初めの頃は良かったのですが、空想映画ばかりで見に行く気も起りません。
 日本の映画は宣伝で、舞台裏を見せ過ぎです。昔、ケイン コスギの映画で橋から船の柔らかなマットに向けて飛び込むシーンを見せていましたが、それを見て行きたいとは!映画の宣伝部にいる人の気が知れません。それかと言うと、ジャキ-チェンは年取って来ましたし、レッドクリフは面白く見られましたが、CGを駆使している外国映画も面白く無くなって来ました。

 そこで、この‘バベットの晩餐’は1世紀以上前の昔のノルウェーの小さな村の話です。その話をデンマークに変えて1987年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。
 デンマークのユトランド地方の、なだらかな海岸線がノルウェーのフィヨルドの厳しい海岸よりこの映画で生きました。ノルウェーは一度ムンクを見に一度行きましたが、私の見た海岸線は素晴らしいですが、この映画ではやはりデンマークが舞台になったのは正解でした。
 
 話は、2人の美人姉妹が途中まで中心となって進みます。キリスト教の1会派の長の娘で2人姉妹が非常に質素な生活を送っていたのでした。そこにパリから逃げて来た女性を、家政婦として家に置きました。服も黒か灰色を常に着ていて、粗末な生活を送っている2人が何故、家政婦を雇う様な事になったのか映画を見て下さい。そして、その家庭の不味い料理法を直ぐに学んで、経済的にも料理で助けて、そのまま十数年間て働いていました。

 ここまでが暗い話ですが、毎年宝くじをその女性バベットが1枚買っていたのでした。それが当たり、牧師の生誕100年を記念して、その禁欲の生活をしている老人達に夕食を出すという話で、実際の映画はとても品のあるユーモアに満ちた面白い作品ですから、機会があれば楽しんで下さい。ここでは簡単に書きますが、将軍が晩餐に呼ばれて、その家政婦バベットがパリで超一流のシェフであったのでした。さらっと超一流のシェフと分かるところとか海亀のスープ、ウズラを食べる所、ブーブクリコ等総てに全員12人に、賞金1万フランを使いきった最後が最高です。

 ビデオに撮っていたのですが、私が貸した人間を忘れてしまって(これ読んでいたら返して下さいね)、今何処にあるのか残念ですが分かりません。ただ、映画の方が絶対に本を読むより素晴らしいです。フランチの贅を尽くしたフルコースを見るだけでも、映画を見る価値があると思います。

  
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237 第5回 デンマークを知ろう!

2012-02-04 09:41:32 | 散策
  デンマークを知ろう5回目に行って来ました。今回で参加2度目、時間が過ぎるのが早すぎますが、前回参加からこのブログを見ると早くも1年が過ぎました。大阪大学外国語学部デンマーク語専攻のゼミの学生の報告会と言うものでした。参加のみんなは、時間つぶしに来ていると思ったのですが、殆どが勉強熱心な年配の人達でした。この近辺だけで無く兵庫や京都からも来ているとはその熱心さに頭が下がる思いでした。

 少し遅れて始まり、各学生が順番に発表してデンマーク国の説明から始まって、初等教育、特別支援教育、そして言語と関係ない高齢者介護の現地報告があったのでした。驚いたのは、年は不明ですが、80歳の位の隣の方は、インターネットから得た情報をコピーして、それに幾つものマークが付いていて本当に熱心に勉強して参加していたのでした。学生達が、デンマーク語を勉強しているのに福祉学科にいる様に勉強しているのにも驚きます。

 デンマーク基本情報では、人口は約554万人(兵庫県558万人)で、面積は九州位ですが、昔デンマーク人にグリーンランドがデンマークの自治領で世界でも有数の大きな国だと言っていた事、それと学生達が巻寿司を現地で作った写真を見て、昔日本から持って行った高級日本茶を出した事を思い出しました。お茶の味は自分でもマズく感じたと言うか薄くて、砂糖を入れた方が良いのではと言われたのも思い出しました。欧州に行って味覚が変わったのに違いないと思いましたが、向こうの水に合わなかったに違いなく硬水・軟水の違いと今になって思っています。こんな日本茶を持って行く事が、京都出の何も知らない人間にできる事なんだと今気付きました。デンマークに行くのに、20才迄チーズを食べずにいた事が今となっては信じられません。日本人も気質が変わるはずです。

 学生たちはコペンがあるシェラン島とユトランド半島の間にあるフュン島のオ-デンセから南45キロ、コペンから165キロにあるスヴェンボー市と言う町に5日間滞在し勉強して来たものを発表しています。短い間に良く勉強していまして、デンマークに住んでいたかの様に何に対してでも答えていました。

 今の学生達は幸せと思います、ハッキリと決められたルートに乗って勉強をして、旅行費用はドネーションを集めていましたが、私の時代には思いつきもしないものでした。1ドル360円の40年以上前の頃は、日本では福祉と言う言葉も一般的でなかったのでした。まして、町の本屋でデンマーク語辞典も見つけられませんでした。私は現地で学校に通いデンマーク語と習ったのですが、現在とは隔世の差です。 

 このブログの初めの方に書いていますが、私はデンマークにいた時に様々な福祉施設を見て、又その二つの生活上問題ある家庭に生まれた子供の為の施設、フリボーにあるボーンイエメロナリュウは0歳児から学校行く迄の子供達(このいる間、強烈に覚えていますが、子供達が青カビのついたパンをわれ先に食べていたのは信じ難いでした)、コペンではオンダンパンション フォーリヘーヴェンは少し大きな子で働きに行っている子供達(貧困、近親相姦等の為)の施設に滞在(ここでの朝食の黒パンのオープンサンドは忘れられないです)する機会に恵まれました。
 その後必死になって覚えたデンマーク語を話す機会に恵まれずに、40数年を過ごしました。20年前に行った時は、私を可愛がってくれた食堂のおばさんディテマーは死んでしまって施設は変わっていて時代はどんどん過ぎて行くと感じました。

 その当時の話をこのブログで書いたのですが、良かったのか悪かったのかその知識を生かす事無く、卒業後は航空会社に勤めて無事?に定年を迎え今に至っています。

 今度は一度、デンマークのユトランド地方の映画の話‘バベットの晩餐’を紹介したいと思っています。


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236 大阪を見なおしました!?

2012-01-28 06:00:00 | 散策
 偶然に図書館で見つけた少し古い本‘歩く地図大阪神戸’を参考に、清水寺周辺を散策しよと思いました。大阪に清水寺とは知りませんでしたが、1640年に京都の清水寺にならって再興されてと伝わる寺であるらしいです。京都人として是非とも行かなくてはと思いました。
 先ずは、通天閣を回ってからからと思って恵美須町で降りました。駅の地図を見てビックリ、この近辺に50を超えるお寺があるではないですか、こんなに狭い所に寺が集中してあるとは今まで知らなかったです。

 取りあえず通天閣看板を目指しましたが、昼ご飯を食べる予定でいたグリル梵ですが9年前の本に書いてある値段を見るとタンシチュウで2000円に高級店に違い無いと思ったのですが、狭い道路を通り過ぎる程の所で、古いおんぼろな食堂と言う感じでありました。少し寄って見たかったけれど昼前でもあり、流石に食べるのは止めました。

 通天閣の前は、団体や人が沢山増えて2度漬けダメで有名有名になった串カツ屋は一杯でした。ジャンジャン横丁に行くと、こちらがメイン通りに違い無い程、人は狭い道に沢山いました。将棋屋さんで何組も勝負していたそれを外から見ている人がいました。途中のたこ焼き屋さんでビールを飲みながら一休みしました。地下鉄の動物園前から人が来るのですが、大阪の子供達は動物を見る為にこんな労働者の町の風景を見て育つのだと毎回思うのでした。
 
 この地域は東京で言うと丁度浅草を狭くした感じに近いです。さて本来の目的であるお寺を目指して愛染公園を右へ松屋町筋を超えて清水寺へ50メートル程の整備された石畳の階段を上がりました。坂の登り口にここら辺りは昔ながらの名水で有名な所らしかったので、登って地図を見ると口縄坂を見てなかったのでした。折角来たので下りるのは勘弁してもらって先の広い道に出て左手に行きました。

 坂がほとんど無い大阪ですが、前の道路が谷町筋で松屋町筋とこんなに高低差があるとは驚きでした。地下鉄夕日陽丘駅を左へ、そこら中にお寺があると言う感じでした。しばらく行くとそこに織田作之助の文学碑で‘青春の回想は終わった、新しい現実が私に...’何か胸にくるものがありました。そして約3メートル幅で50メートル程の良く整備された口縄坂がありました。両側はそれなりにいい雰囲気があって大阪にもこんな所があったのかと思いました。

 坂を下りると再び松屋町筋はお寺街が続きます。円生院を左へ回り、大江神社の階段が挑戦しろと言うようにありましたが、挑戦せずに、その前を通り過ぎて横の坂道を上りました。登りきった所で左後ろを見ると丁度大江神社の裏門でした。
 大江神社に松尾芭蕉の碑があるハズなのですが、見つけられませんでした。左奥に阪神タイガースの旗が見えたので行くと、流石に大阪です、柵の上に何本もメガホンや新聞の切り抜き等優勝祈願宜しく並べてあったのでした。

 そこを出て、直ぐ左側に愛染さんがある、勝まん院がありました。裏にある多宝塔は聖徳太子が建立して、豊臣秀吉が再建した重厚なものでした。このあたりは戦災からまぬがれたようです。
 
 やっと清水さんです。舞台は鉄筋で小さなものですが、おとわの滝に似せた所は本物の様に上を歩く訳には行かないですが、それなりに上手く作ってありました。その前の道を行くと真田幸村が戦死した場所と言われる安居神社は幸村の最近建てられた像がありました。
 その向いの一心寺は外から見ても石垣で凄い建物ですが、かなりなもので入り口にモダンアートの様な2対の仁王像、10年に1体作られる信者の分骨の阿弥陀如来坐像は初めて見たもので沢山の人がお参りしていました。

 そこから四天王寺は直ぐにありましたが、凄く広くてそして人が多いのでビックリしました。それも其のはず21日で、境内は色々なお店で一杯でした。コカコーラの瓶や古着、骨董品迄、昔の京都の北野神社を思い出すほどのものでした。途中から雨がひどくなり残念な事に閉めているお店も多くなってきました。

今日は予想外に沢山歩き、雨にも負けて、もう少し歩きたかったのですが、疲れたので帰る事にしました。大阪再発見の素晴らしい散策、総歩数約18,000歩でした。
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235 アメリカの結婚式

2012-01-21 08:00:00 | 散策
 ある機会にユダヤ人の結婚式に出る事になりました。そもそも外国のユダヤ人の結婚披露宴にでるのは初めてでして、殆どの人も出た事が無いと思いますが、ボルチモアの中心部のホテルでありました。一度も出た事が無いのに何故ユダヤ人の結婚披露宴と分ったのかと言いますと、頭の上に白い帽子のような映画で見る物をかぶっていたから多分そうでした。日本と違って、スピーチも無く皆で踊るだけでした。あれよあれよと言う間に時間が過ぎて行きました。色々体験していますが、これがどれだけ役に立った事やら、現在の生活を見て見ると良く分からないです。

 私の結婚式はアンダーソンと言う町の教会で行いました。シカゴの乗り換えの時間20分で空港内を走りまして、インディアナポリス迄行ってそこから車で行きました。日本で知っていました牧師さん一家がアメリカに帰ったので、そこで結婚式をあげる事にしたのでした。その牧師さんとは式当日、朝に一緒にゴルフをしましたが、奥さんがかなりの剣幕で‘この忙しい時に何をしているの’と彼に文句を言っていた事を思い出しました。

 結婚式ですが、英語か日本語(牧師さんは日本語を理解しました)どちらでやるかと聞かれて、折角アメリカまで来たのですから英語でお願いしました。映画でやっている様に牧師さんの言う事に‘Yes I do’で答えれば良いだろうと気楽に思っていたら、事前にやる内容を見せられてビックリ、全部英語で繰り返し言わなくてはいけないのでした。必死で覚えましたが、かなり大変でした。
 式は大学の構内にあるチャペルで行いました。そこでの写真が大きく新聞に載って8,000マイルをこの結婚式の為にやって来たと、それに続く文も何も取材はありませんでしたが、それは素晴らしいものでありました。式は牧師さんの子供、女の子と男の子がかわいい盛りで、その二人が新婦のドレスのすそを持ってくれると言う事でものでした。
 
 女の子は金髪でアメリカから乳飲み子で日本に来て、神戸で私と話している姿を見せたかったです。外から見れば英語が凄く話せそうに見えるのですが、金髪の女の子がそれも神戸弁をべらべらに話すとは誰も気付かないに違い無いと思いました。その子がアメリカに帰って3ヵ月で日本語をまるきっり話す事を止めたのでした。本人が話す米語が日本語訛りだと、アメリカに帰ってからいじめにあったのがショックで話さなくなったそうです。子供とは何処でも自分が思っていなくても残酷になるんですね。

 費用は、チャペルの掃除代金として50ドル、それから披露宴は現地の方々歌を歌ったやピアノを弾いた人達を夫婦で招待(言わなくっても夫婦は当り前との事)一般の家で商売として部屋を貸し出、食事やケーキを出して頂き250ドルでした。人数は忘れましたが料金は1人ではありません、ドルが今より高かったですが凄く安かったと思いました。それで写真はプロが撮影に来てくれてポーズを取らされましたが費用は式代金と同じ位でした。
 アメリカの結婚式では血液検査が必要と最初言われたのですが、取られる心算でいたら、結局海外住んでいると言う事で免除になりました。役所に登録する為に行くと、結婚記念に洗剤等日用品を頂き、結構面白かった事を覚えています。ちなみに豪華なウェディングドレスは確か100ドルでシアトルで事前に日本に住んでいて結婚式に参加したポートランドにいるアメリカ人牧師さんに連れて行って買ったものでした。いずれにしても日本でより、かなり安くきりあげられたと思います。

これも古い話となりました。
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234 正月早々なんですが!

2012-01-14 05:30:00 | 散策
 今年最初の墓参りに今週の月曜に行って来ました。喪中の葉書が増える中 私も昔であったら、お墓の中にいてお参りされる方でした。例えば、小学生の時に盲腸を手術で、昔ならこの世を去っていたかも知れないのでした。驚く事に、兄は盲腸の手術を麻酔無しでやったのでした。
 最近知りましたが、私も同じ医者でしたから兄と5歳違うのですが、兄が手術して、多分数年後でしたから良く先生が麻酔を使ってくれたと思います。お腹を切ると言う事は切腹と同じ様な事を麻酔無しとは、大変に恐ろしい時代でした。術後の回復が早いからと子供にそんな事をするとは、高々50年ほど前に起こった事とは、驚くべき話で信じられない事です。この話を聞くたびに本当にあったのかと思うのでした。
 しかし、もう少し前、大正明治もう少し前江戸時代なら確実に盲腸で死んでいましたから、今なら簡単に治った病気もも多かったに違い無いと思い、健康に正月を無事に祝える事を感謝せずにはいられないです。
 
 自分の墓について考えるにはちょっと早いですが、早いに越した事がありません。両親が早く亡くなってしまったせいで、もう既に両親より長生きしています。もう、そんな年になったのかと自分の年齢が信じられません。そう言う意味でも考えるのは遅くは無いです。

 石材店にお墓の掃除の見積もりを依頼しました。墓場で二人が同じロゴ入りシャツを着てお墓を掃除している人がいたからでした。考えて見れば今まで、お墓の掃除を業者に頼んでやってくれるとは、そんな職業があるとは知りませんでした。
ただ、電話をすると凄く始めの受け応えは良かったのですが、直ぐに折返し電話があったのに何時までも返事が来ないです。どうせ今直ぐにやらなくてはならない必要な物でもありませんので、そのままにしています。

 お墓参りに行くとなると、お墓の掃除を兼ねての事になるのですが、現在遠くなってしまって(大阪京都そんなに距離的に遠く無いですが?)、年数回しか行かないとなると掃除を業者に頼む様になっても仕方が無い事なのです。そこで業者さんが、活躍するのは全く面白い良い職業だと思います。宣伝次第で将来性ある業種と思います。1件3-5万円も取れば、これから何といっても、これから増える段階の世代をターゲットにした商売が面白いと思いますが、将来が不安な所はどの世代の悩みでもあります。

 私の生まれる前ですが、戦前まだ我が家にお金があった時に立てられた為に、墓石も立派なものでして、ちょうどいた墓守さんと思われる人に値段まで言われました。仏壇も立派な物で、ただ両親が生きていたら墓掃除を業者に頼むと言う、この現状に呆れかえってしまうでしょう。しかし、立派なこれらのものが次の代にどうなるかと言うと心もとありません。
 
 お墓はあるもの、本当かな?関西の宣伝の様に墓の無い人生は、はかない人生‘は本当かと思う様になってきました。死んでしまえば皆同じに何も無くなってしまうと言うのが私の考えです。そうで無かったらあの世は一杯になってしまう事でしょう。
 輪廻でこの世に戻る人、他の動植物に変わるから、その様な事は無いと言われるかも知れませんが、あの世に行ってどうしてそんな事が分るのでしょう。分る人がTVに出てきますが、その総て否定的に考えます。この世が総て、生きている間が総てと思っています。
 正月早々つき合して済みませんでした。
 昨年の12月31日に59歳で亡くなった友人の森本仁司さんのご冥福を心よりお祈りします。 
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233 なばなの里

2012-01-07 06:49:21 | 散策
‘新しい年、おめでとう御座います’

  正月2日、今年最初は‘なばなの里’までの日帰りバスツアーに参加しました。朝遅く10.30分発、そして9,990円で近江牛すき焼きと松坂牛朴葉焼き膳という豪華なお昼と夜はホタテ弁当と言う事で参加しました。

 関ヶ原で昼食予定、途中渋滞に何度も巻き込まれて着いたのが1時40分でした。関ヶ原インターチェンジ近辺では雪が多くて渋滞のメッカですが雪が側道には積もっていましたが、そこでは渋滞に巻き込まれずに無事につきました。
 関ヶ原は合戦で有名ですが、殆どの人がICを下りるのは初めてと思います。町には戦国時代を表すものはありませんでした。と言うより考えてみれば戦争があっただけで何もあるはず無いでした。何処にもツワモノどもが夢の後も見当たら無かったのでした。
 ただ、昼食場所に行く手前に、塀越しにバスから見た風景が、大きさは大体いい加減に見積もって300坪程の所に戦場場面を人間と同じ大きさの人形が、合戦状況を説明するかの様に馬と一緒に丁度雪が降った後の中に、そこやあそこに立っていたのでした。それを入場料も払わずバスから見て、バスが一杯停まっている駐車場に着きました。

 そこで昼ご飯が、早速火が点いている小さな鉄板鍋2つに、鍋の中には一枚をすき焼きにするのに惜しい様な分厚い牛肉とうどんがもう食べても良い頃合いになっていました。お皿に3cm程の赤い虫の様な漬物が付いていましたが、正月に頂くチョロギと言うものでした。それをあてに持参のポケットウィスキィを飲みながら松坂牛朴葉焼きが香ばしく二つとも美味しく頂きました。

 そして、バスに再び乗り日本3大稲荷神社、おちょぼさん(千代保神社)へ行きました。正月で目茶目茶混んでいて100店舗以上ある参道を左右に10店舗も見られずに人が多く残念ながら諦めました。なかなかユニークで、おあげとロウソク30円だけ受け取って、賽銭は受け取らないと聞いたのでした。その30円のものを買いたかったのですが残念でした。

 なばなは光の120万球200mのトンネルが有名で、ここ数年新聞等で良く見ます。イメージはつくと思うのですが、流石にそれだけでは満足しないかの様にかなりの広い場所に数々のライティングで埋め尽くされているイルミネーション630万球のテーマパークと言えます。
 その光のトンネルをくぐって行くと、圧巻は手前に広場と思えるライトを一杯に日本の四季を表したものでした。大きな木を中心に春には桜の花が咲き、そして散りゆく様を表してその前を季節に応じて幻想的な色が白、緑に変わっていくものでした。夏になると花火がその大きな木に写し出されると言う風に季節毎に色が変わり凄く美しく見られます。それを過ぎて今度はカラフルな光の宝石箱をくぐって行くと、水上イルミネーションと色々な光を楽しみました。それから忘れてはいけないのが花の楽園ベゴニアガ-デェンはかなりの数の花が見ものでした。 

 私自身は成田勤務で4勤2休の毎日を送っていましたから、正月と関係無くみんなが遊ぶ時に働いていました。ただ、ほぼ自由に長期休みを取っていたのですが、退職の後、休みは殆ど無くて今年は正月に4日もまとめて休めるのは初めてでこんなに楽しく嬉しい待ちどうしいものと思いませんでした。盆と正月が休みであった昔は正月は大変な楽しみだったと想像します。 
 いずれイタリアのフィレンツオーラに是非とも行きたいと思います。今の所、夢ですが!実現する為、頑張ろう...
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230 深川7福神めぐり Ⅲ 最終編

2011-12-17 07:10:59 | 散策
  東京はお寺の多いのにまず驚きます、善徳寺、霊光院、龍光院、浄心寺では流石東京その墓場の卒塔婆の数の多さに驚きました。塀の外迄、狭いから目立つのか卒塔婆がギッシリとありました。こんな墓場は初めてですので、もの好きの方是非見学して下さい。30センチ程の墓が連なってあり、見ると同日で沢山の卒塔婆があり何かの法事がなされたのでしょう。どのお墓も多分一人一人が別々に卒塔婆を作るのでやたらと多いのに気付きました。それにしてもこの様な墓場は初めてで驚きました。余り気味の良い物では無かったでした。感想としましては、私は死んでもこんな狭い所に入る位なら、自分のお墓はいらないです。

 大体京都と違ってお寺の建物は多分戦災で中途半端に新しくて、観光寺院が多い京都と違って、墓場の管理的な所が多い様でした。こんな寺院も確か霊光院では落語の寄席が1,000円で前売りをしてましたが、今となっては本当の寺銭をかせいでいるのだと思いました。どこも似たりよったりのお寺ですが(京都奈良もお寺神社を外国の人に一緒に行くと、どれも同じに見えます)、取りあえず東京にはお寺が多いのには毎回驚かされます。

 深川2中の学生服を見ていると、着こなしが野暮ったいのが東京の中学生も田舎と同じ風に見えたのは私だけだったでしょうか、私の想像ですが、都会の学生は学生服を着こなしているとは勘違いでした。 
 冬木弁天堂(弁財天)はお堂の横の像が盗まれ無いかと、余計な心配までしてしまいました。明治小学校は多分古い学校だろうな、名前もナカナカのものです。
 心行寺は江東区がどんなものか分からないけど江東区最古の五重石塔となっていましたが、石塔がどれだけあるのかと思いました。初めて見たものばっかしですが、深川えん魔堂は賽銭を入れるとコンピュウターで話してくれる凄い中国風のエンマさん。私とは関係無い浮気封じ、関係無いとは言えないボケ封じ、いじめ除けにご利益ありとの事でした。今考えると賽銭弾んでたらボケ封じに良かったと残念。

 良く整備されて植林された高速道路の下を立派な鳥居と建物のある富岡八幡宮へ。昼間からコップ酒を飲んでいる人を羨ましそうに眺めながら良く見ると、横の人が携帯電話を使っているのではありませんか、流石東京と驚きながら、やっぱりホームレスと違ったかもしれないと、本当に気楽で幸せそうでした。
 ここ富岡八幡宮は伊能忠敬が、測量の前にここに来た事があると言う少し頭が大きい像が実物より大きめのがあり立派な神社でした。
 昼食の量不足の為に、たまらず境内を出た所の門前そば屋さんにて500円のかけそばを食べました。東京に来て初めての汁そばでしたが、細めんで500円の味はまずまずでした。
 
 今回の最後の〆は深川不動尊で、一見の価値がありましが、4階建てのビルの中身はきらびやかな仏像の数々が見られます。阿の橋は地下30メートルから採れた石で総ての本源の阿と言う光が3メートル程の橋の中心にライトで照らされて、その橋を通ると希望成就、でも宗教心無く通過。総て無料ですが、やたらと賽銭箱が多いはビックリでした。少し古いのですが、足裏占いの福原教祖もこのアイデアを取ったかも知れません。

 まあ、そんな雰囲気の所でしたが、成田本尊よりもこの別院の方が楽しめました。参道の入り口敷地から出た最初の所が、何故か京のぶぶずけ(おちゃずけ)と隣が京の漬物のお店でした。参道は成田不動尊や葛飾の帝釈天の方が情緒がありました。


 
 
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228 スキー IN AMERICA

2011-12-03 08:00:00 | 散策
 もうすぐスキーシーズン、素晴らしいスキー場がアメリカに彼方此方にあるので、スキー場を紹介する為仕事でも、そして遊びでも比較的に良くスキーに行きました。ちょっと変わった所で、一番日本から近かったのが2度行ったシアトルから約一時間少しのクリスタルマウンテンです。飛行機乗る時間合わしても大阪から車で行く信州より楽で殆ど変わらないのだと思いました。
 総てのスキー場にコースがあるのですが、日本と違って、みんなは何処でも滑っていますので、コースとは関係無くそれなりに楽しめます。

 シアトルに着いてからレンタカー会社で車とチェーンを借りて行ったのですが、途中は雪も無く、それこそ晴れ男のままで良かったですが、もう到着である最後の駐車場に入れる時にチェーンを付けなくて、ちょっとの距離に付けただけで切れてしまったのでした。幸いに帰る時には雪が少なくて助かりましたが、それ以降チェーンは其の都度買うことにしたのでした。勿論レンタカー会社にはクレイムを嫌と言うほど言いました。

 マウント レイニアは山の向こうにそびえたち美しくてスキー場は問題無く良かったのですが、町から1時間と近いので週末は日本ほどではありませんが混んでいました。

 又、別の時にヘブンリーバレイに行った時の事、雪が降ら無くなくて現地にいる人が何故来たのかと不思議に問いました。今晩から雪が降ると言ったら、その言葉通りドカ雪で、直ぐにでもスキーができそうになったのですが、アメリカでは知らなかったですが保険の問題があるから直ぐにオープンできないとの事でした。
 大体遊び晴れ男、仕事雨男の誉れ高くて?旅行に傘を持って行く事は無かったのですが、スキー場の保険には勝てなくて近辺に沢山あるスキー場にいったのでした。道は雪で覆われていましたが、車はスノータイアで80キロは問題なく出せました。何処のスキー場か忘れましたが、その時、吹雪の中で丁度リフトに乗っていて、余りに風が強くて止まってしまって、寒い中映画の如く空中で吹きっさらしになったりしました。お陰で随分と色んなスキー場でスキーを経験できました。

 勿論、最後の何日かはヘブンリーバレイ、ここはネバダ州とカルフォル二ア州とにまたがってあって凄く美しいコースです。ホテルがネバダ州にあったので夜はカジノで楽しみましたが、未だスキーシーズンが始まった所で、広い所で凄く閑散としていました。飲み物を運んで来る女の子にチップとして25セントを払ったのですが、その時はOKでしたが、ラスベガスに行った時に同じように25セント払ったら2度と来ませんでした。やはり田舎とは大違いでした。
 屋外プールがあったので、娘と2人だけで雪の中の水泳を楽しみましたが、中に戻ろうとして入れなくなって大騒ぎした事を思い出します。帰りは、リノに行く前に丁度クリスマス季節でしたから途中の村では村ごとイルミネションで美しくしてあったのが凄く印象に残っています。

 別のとき、帰りにサンフランシスコに行こうとして、車を雪の中に突っ込んで助けを呼びに世話になった人が働いているとこまで行きましたが、帰ってくると何のことは無い前の雪を除け貰って脱出していたのでした。脱出するには後ろに行かねばならないと考えが馬鹿だと気づいたのでした。

 その時、一時間程レストランで食事を取って外にでたらビックリする程凄いドカ雪で、オーバーで無く少しの間に膝下まで雪が膝まで積もったのでした。やっぱりアメリカのスキーは長靴が必要と思いました。雪で前が見えない中ドライブして、その後は途中でアウトレットで買い物をしてサンフランシスコに行きました。今となってはいい思い出です。

 
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227 深川7福神めぐり Ⅱ(続き)

2011-11-26 06:51:25 | 散策
 森下駅の出口A7番の直ぐ近くのカトレアのカレーパンは諦めたのですが、お腹が減ったので、今日の目的の一つ‘深川めし’の老舗のみやこを目指しましたが、これもまたまた見つけられずに苦労しました。私の方向感覚がいいのも怪しくなりました。

 やっとのことでちょっと趣きのある店構え(大阪の‘みみう’本店の古民家風建物)を入るとそのまま縦に廊下があり左側が30畳位の大広間に和テーブルが幾つも並べてあるのが見え右手は厨房、手前に階段がありました。お腹の減るはずで、1時と言う事もあり人はまばらでした。

 そこで、お昼のメニューの深川飯を注文、深川めしはかって深川で江戸前のアサリが沢山取れていた頃に魚師が好んで食べたお手軽料理と言う事でしたが、現在は千葉のアサリで復刻版をここのご主人が近年になって始めたとの事です。
 味はさっぱりしていて丸いセイロで小鉢(青背の魚の味噌漬け)とみそ汁と漬物付きで1,200円でした。他にてんぷら又は刺身付きになるとそれぞれ2,200円で両方付くと5千円となります。懐石になると8千円からですが、お店のメニューはそこら中に紙で表示してあるので参考にして下さい。良くこれだけの事を調べたなと今思いました。
 居酒屋風のお店で、味はまずまずなのですが、量が少なすぎましたので、その雰囲気と合わせて総合60点と言う所でした。アサリの煮汁でご飯を炊いていると言う事ですが、貝のかけらが入っていたので特に採点が厳しくなりました。
 
 この量の上品さにカレーパンを食べられなかった事を悔みました。まだパンのできるまでの時間があり過ぎるので、残念ですが再び諦めました。

 私の採点は低かったですが、話の種に一度は行って食して下さい。お店の名は割烹‘みやこ’(3633-0385)月曜は休みですからご注意して下さい。再現江戸時代の一品料理を売り物にしています。

 まだ、最初の七福神の寿老人を祭ってある深川神明宮を訪れていないので戻り、さすがにこれは比較的簡単に見つけられました。そこで深川の謂れを勉強しました。
 16世紀の末から17世紀のの初めに深川八郎さん(友達ではありません、念のため)がこの地域を開発して深川と名付けられたとの事でした。八郎さんは正しくは八郎右衛門と言うそうでした、つまり深川の八ちゃんが住み始めやはった所だそうです。比較的大きな石の鳥居で、また少し大きめの社殿は戦後造られた東京では他の神社と同じ鉄筋でした。
 残念ながら歴史的な建物は期待できないので毎度説明書きを読む事にしています。小雨の中、隅田川の支流の小名木川沿いに高橋を渡り清州白川駅を経て深川稲荷へと行きました。

 深川稲荷は布袋さんを祭ってあって、石囲いのそれぞれに寄進者の名前が赤文字で書かれているのは、私的には趣味が悪いと思いましたが東京人は変な所で目立ちたいのかも知れません。この後、この地域の殆どが多分同じ様に仕上げてあるのを発見しました。
 近くに大鵬部屋、北の海部屋、尾車部屋と相撲部屋がありますが、雨がヒドクなったのでスキップしました。芭蕉の碑も見落としてしまいました。残念!

霊験寺を過ぎて中通商店街、ここは街灯に模造の中商店街の桜があってなんとも寂れた所で思わず‘頑張って’と皆さんに声を掛けたくなる所でした。そこを過ぎるとマタマタ深川資料商店街で、ここが歩道もあって少し活気があり本物の桜並木がありました。ここで雨が降って来て、傘が気になり深川江戸資料館を見落としてしまいました。つづく

 
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