初めて降りる駅、JRの‘玉造駅’そして初めて行く地域でした。私のあてにならない地図によると左側、どちらから見てか、つまり西へ、とりあえず細い商店街に入り南へといい加減に行きました。磁石が必要になって来る程の狭い商店街で、誰かに聞こうと思っていたら右(西?)側の広い道路の向こうに其れらしき神社が見えました。急ぐことは無いので、そこを目指して歩いて行きました。
第一目的の地、三光(さんこう)神社を見つけました。2-3日前迄知らなかったので偉そうに言えませんが、真田幸村が大阪冬の陣の時に大坂城の出城を作った所であるらしい。この前信州の真田迄行った所ですが、石段に六文銭の旗があり、境内には真田幸村の武者姿の立像がありました。一番見たかったのは、大阪城迄通じていると言われる洞窟でした。入口は鉄柵で入れない様にしていましたが、石室状の約1メートル50と1メートル程の石穴で、中を覗いて見ると2-3メートル程入ってそこからどうなるか分かりませんでした。映画のプリンセス トヨトミの作者はここを見たのに違いないと思い、これだけでも大きく夢一杯になりました。その上に、大阪らしく?本物もこんなだったのかも知れませんが、安っぽい6文銭の矢盾がその上に飾ってありました。
神社自体は小さな物ですが、裏側は公園になっていました。左側を上って行くと、また柵があり、何かと覗くとお墓でした。お墓自体、高さはそうでもありませんが、通常より大きさが半分位の石のお墓が沢山整然と並んでいました。遠くから良く見ると、先の戦争で亡くなった兵隊さん達のお墓でした。
合掌
この辺りと言うか、大阪全般焼け野原になったのですが、ここも終戦直前に焼けてしまったと記述してありました。京都に住んでいると嘘のようです。京都の我が家の後ろに爆弾が一発落とされたのですが(伏見にも1発計2発と聞いています)、それでも大変な事だったと聞いていました。この辺りは凄い数の爆弾が落とされたのでしょう。
比較的に広い道路を円珠庵(幸村が冬の陣の時に陣所を構えた所)を探して心眼寺坂を行くが、地図の様に無いので通りすがりの人に聞いても住んでいないので分らないと残念ながら諦めました。
この辺りは道路が大阪らしく無く、お寺も(勘違いしていましたが、大阪は寺が多いです)、学校も多くあり、良く整備されていて今までの大阪のイメージは変わりました。ここが円珠庵かも知れませんが、地図と違ったのですが、お寺があり6文銭の旗が立っていました。
その整備されている道を、北に行くと、これ又多分、見て見ないと分らない広い敷地に米国のハワイにある近代建物風、立派なアーチ型の門に右側に大阪女子学園、左側に1884年創立のウヰルミナと表札が上っていました。中を見られず残念でしたが、そのまま行くと、道路を挟んで、広い駐車場がある聖マリア聖堂がありました。マルッキリ今までの大阪のイメージ(どんなイメージや!済みません一人突っ込みでした)が変わりました。大阪の人、誠に御免なさい、大阪にも文教地区があるのです。
青刻(きざみ)昆布発祥の地の石碑が玉造越中公園にありましたが、白黒ドラマ横堀川で片岡仁左衛門がこれだけは覚えている、多分誰も知らないと思いますが‘これが真昆布や’と言っていた昔を思い出しました。
団体さんが何かを見ているので、そこを見ると、昔の細川邸があって、明智光秀の娘で細川忠興の妻ガルシア夫人が、忠興が徳川家に見方した為に、石田光成に大阪城に人質として入る様に言われてのでした。それを拒否して、洗礼を受けていたので自殺は許されないので、ここで家臣に胸を突かれたと言う話しのゆかりの地越中井と言う井戸の跡でした。その近く聖マリア聖堂にガラシア像があります。
前回が超庶民の町でしたら、この辺りは中級以上の家が多くあり、初めての綺麗で整備充分の大阪、見直しました。
第一目的の地、三光(さんこう)神社を見つけました。2-3日前迄知らなかったので偉そうに言えませんが、真田幸村が大阪冬の陣の時に大坂城の出城を作った所であるらしい。この前信州の真田迄行った所ですが、石段に六文銭の旗があり、境内には真田幸村の武者姿の立像がありました。一番見たかったのは、大阪城迄通じていると言われる洞窟でした。入口は鉄柵で入れない様にしていましたが、石室状の約1メートル50と1メートル程の石穴で、中を覗いて見ると2-3メートル程入ってそこからどうなるか分かりませんでした。映画のプリンセス トヨトミの作者はここを見たのに違いないと思い、これだけでも大きく夢一杯になりました。その上に、大阪らしく?本物もこんなだったのかも知れませんが、安っぽい6文銭の矢盾がその上に飾ってありました。
神社自体は小さな物ですが、裏側は公園になっていました。左側を上って行くと、また柵があり、何かと覗くとお墓でした。お墓自体、高さはそうでもありませんが、通常より大きさが半分位の石のお墓が沢山整然と並んでいました。遠くから良く見ると、先の戦争で亡くなった兵隊さん達のお墓でした。
合掌
この辺りと言うか、大阪全般焼け野原になったのですが、ここも終戦直前に焼けてしまったと記述してありました。京都に住んでいると嘘のようです。京都の我が家の後ろに爆弾が一発落とされたのですが(伏見にも1発計2発と聞いています)、それでも大変な事だったと聞いていました。この辺りは凄い数の爆弾が落とされたのでしょう。
比較的に広い道路を円珠庵(幸村が冬の陣の時に陣所を構えた所)を探して心眼寺坂を行くが、地図の様に無いので通りすがりの人に聞いても住んでいないので分らないと残念ながら諦めました。
この辺りは道路が大阪らしく無く、お寺も(勘違いしていましたが、大阪は寺が多いです)、学校も多くあり、良く整備されていて今までの大阪のイメージは変わりました。ここが円珠庵かも知れませんが、地図と違ったのですが、お寺があり6文銭の旗が立っていました。
その整備されている道を、北に行くと、これ又多分、見て見ないと分らない広い敷地に米国のハワイにある近代建物風、立派なアーチ型の門に右側に大阪女子学園、左側に1884年創立のウヰルミナと表札が上っていました。中を見られず残念でしたが、そのまま行くと、道路を挟んで、広い駐車場がある聖マリア聖堂がありました。マルッキリ今までの大阪のイメージ(どんなイメージや!済みません一人突っ込みでした)が変わりました。大阪の人、誠に御免なさい、大阪にも文教地区があるのです。
青刻(きざみ)昆布発祥の地の石碑が玉造越中公園にありましたが、白黒ドラマ横堀川で片岡仁左衛門がこれだけは覚えている、多分誰も知らないと思いますが‘これが真昆布や’と言っていた昔を思い出しました。
団体さんが何かを見ているので、そこを見ると、昔の細川邸があって、明智光秀の娘で細川忠興の妻ガルシア夫人が、忠興が徳川家に見方した為に、石田光成に大阪城に人質として入る様に言われてのでした。それを拒否して、洗礼を受けていたので自殺は許されないので、ここで家臣に胸を突かれたと言う話しのゆかりの地越中井と言う井戸の跡でした。その近く聖マリア聖堂にガラシア像があります。
前回が超庶民の町でしたら、この辺りは中級以上の家が多くあり、初めての綺麗で整備充分の大阪、見直しました。