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旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

226 ニューメキシコ  それと!

2011-11-19 07:00:00 | 散策
 メキシコ迄車で3時間、サンアントニオは全米屈指の大都会(第9位)であるにも関わらず日本と違い高速を使い町に入る雰囲気で、街並みは何か落ち着きがあります。1番の観光スポットがアラモの砦で、デェビークロケット、ジムボウイがメキシコ戦争の盾となった所です。
 
 デェビークロケットは映画でジョンウェインがやって涙したのですが、当然皆が知ってると思ったけれど35年ほど前に、ビジネス学校で教師のバイトをしてる時に、アラモの砦を説明したけど誰も知らなかった思い出があります。我々年代でしたら映画で歌でと、誰でも知っていると思ったのにその頃で遠い昔話しとなっていました。
 その時から、35年もう知っている方も少なくなったと思います。リメイクの映画はそんなにヒットしなかたので、日本人にとってアラモが遠く消え去ったかも知れません、消え去ったに違いないです。

 行った事が無いけどベニスに例えられるサンアントニオ リバー、ロマンチックなリバーウオーク様々なタイプのカフェで朝食を楽しめます。その時食べた超ビッグなシナモンロールは一度は食べて下さい。メキシコの雰囲気を味あうなら、アークットメキシカンマーケットも面白いです。
 そして水上遊覧を楽しめば、かけがえ無い旅の思い出を創る事は保障付きです。遊覧の後には、ジョンウェインのアラモの砦で我々年代の人間には堪らない西部劇のメッカTHE ALMOの見学やショッピングで1日は直ぐに過ぎて行きます。しかし、アラモの砦を知らないなら、済みませんが、そこで勉強して下さい。

 リゾート気分を味わうホテルに滞在、Westin La Canteraが空港から約20分で、ただ車のスピードがやたらと早くて注意が必要です。目の前に立派なゴルフ場があり、近くにSix Flags遊園地がります。広い園内には各種の最新(但し私が行った時ですから?)の乗り物、それ以外にも水のテーマパークと1日過ごせました。車があるならこの町のスピードで直ぐですから私の泊まったWestin La Canteraホテルがお勧めです。街中のリバーサイドにはMarriot/Hyatt/Hilton等どれも買い物に便利で水上遊覧もホテルの前から出ています。

 ニューメキシコ州で思い出すのが、アルバカーキ-で、ミィーティングの後に見学と皆でロープウェイに乗って山の頂迄行きました。ロープウェイのしたは岩場だらけの所でした。そんな中、我々全員当然スーツ姿でしたが、山を越した途端に雪世界でした。そこには何とスキーヤーが一杯いました。そんな所でスーツ姿は無いですよね。

 話は飛びますが、デンバー空港で、同時多発テロ後でセキュリティーが厳しくなって空気を1度にプシューと下から横から噴出すのに、娘がひっかっかて2-3度吹き付けられる事がありました。笑ってはいけない所ですが、マリリン モンロー状態でスカートが上にあがり皆の注目を浴びた事も思い出しました。セキュリティの人も申し訳なさそうにしていましたが、本人必死、こちらは笑うのを堪えるのに苦労しました。と言うより笑っていました。

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このブログが一杯になった時様に、少しづつ1‐166話を移しています。166迄の項をヤフーの画面で検索、http://kitashimizu.cocolog-nifty.com/ を見てもらえれば、見られますので宜しくお願いします。読んで無い人も読んでもらえればと思います。

225 箕面(みのお)

2011-11-12 06:10:39 | 散策
 愛宕山に登る予定でしたが、風邪気味と生憎の空模様とで急遽モット簡単に歩いていける所に行く事にしました。インターネットで初心者、山登りと探して見ると、ボンボン山が出てきました。高槻市と京都西京区の境界に位置する標高678.7mの山で適当と思いましたが、JRで高槻迄行ってそこからバスで行かなくてはいけないので、いずれその内と結局、仕事で行っている箕面にきめました。
 
 先週、我が家のある豊中から箕面駅迄1時間を少し超えて歩きました。箕面駅迄でも充分に歩きましたが、ここからが箕面滝道まで駅から1‐2分で直ぐに紅葉の天ぷらを売っている店があちこちにあるような滝口の観光地域に入ります。滝まで片道4-50分、休まずに歩いてかかり、一年前に来ましたが、こんな近い所に観光地があるとは驚くような場所です。

 去年来た時は、紅葉の真っただ中でまるで梅田、東京で言うと、渋谷に来たような人人でしたが、今年は紅葉前と生憎の雨模様で人もまばらで本当に静かでした。電車でしたら、大阪中心部からもそれ程遠く無い所です、観光マップによると途中の橋本亭は築100年の木造3階建てで、元旅館をカフェやギャラリーに改修したスポットとなっていて、箕面山龍安寺は宝くじの機嫌である‘箕面富’発祥のお寺となっています。

 そこを暫く歩くと、殆ど人通りが無くなって、静かな良く舗道された山の道になりまして龍安寺より先、お店があるのは2ヶ所だけで、残りは滝の近辺にあるだけと言う事になります。山ですから沢山数え切れない程の木がありますが、その一本一本に番号が打ってあって驚く事に、結局数えていました。今日みたいに人が少ないと、かなりの田舎に来た様な気分に錯覚させられます。

 この滝道は、なかなか良く整備してあって道幅もそれなりにあり、川側に柵があって歩き易かったでした。終点の滝の手前の上の方には駐車場がありますが、滝からはそこが見えないです。以前はお手軽に車でその駐車場に停めて滝まで良く来ましたが、駐車場近辺には野生のサルが一杯いて悪戯をしていたのですが、市の条例で餌をやる事を禁止したので今はどうなっていることやら...(後にニュースで山の奥の方に餌場があってそこに行ったとの事で、一番弱いK集団と言うのが、お隣の池田市に現れる事になっているとの事でした)

やっぱり労力を押しまずにゆっくり歩いて来た方が、ナカナカ情緒があっていいものでした。まして、今回は無理でも、色とりどりの紅葉はゆっくり見たいものです。滝には人がまばらで、今日はゆっくりと見られましたが、ピーク時、もう今日11月12日から後大勢の人が詰め掛けると思います。

 帰り道は、行きとは違う道、途中大きな姫岩の方向に行くと舗装していない遊歩道になっています。舗装していないと言ってもちゃんと整備された道で、時々は川を挟んで行きに来た道が見えます。信じられないですが、前後に人がいなくて、小雨で迷って出てきた川蟹がいたりしました。又、山の中を歩いている様な気持ちになって来ますと言うより、山の中でして珍しく人がまるっきりいなくなって心細い気持ちになって来ます。

 休みの日に、わざわざ仕事でも無いのに風邪を押して箕面迄行きましたが、愛宕山に登る予行演習と思えば良い選択でした。兎に角、この滝があるだけで沢山の観光の人を呼べるのですが、こんなに近い所にあるので紅葉の週末は混むのが当然と言わざるを得ないでしょう。


224 東京 深川7福神めぐり Ⅰ

2011-11-05 06:12:26 | 散策
 千葉を離れて2年と半、前に書きましたが、そもそも欧州に行った事を166話で終わるつもりで1日1話で書いて来ましたが、そのペースに皆さんが着いて来てくれたので、その流れで散策日記をメインに書きはじめました。たまには昔メールで友人に送っていた散策日記を紹介します。

 本当のメインの1‐166話の話は、現在ヤフーの検索画面から http://kitashimizu.cocolog-nifty.com/ にも順次移して改めて読んでもらえるようにしました。間違って途中で入って、まだ読まれて無い方は良ければ読んで下さい。

 所で、今回のコースは森下から門前中町駅迄 私の足で約2時間位かかりました。東京の下町と言うよりも典型的な日本の下町を感じさせる所でした。残念ながら、私の知っているのは、京都、大阪、名古屋と東京だけですので、その4カ所、つまり何処にでもありそうな雰囲気の街として下さい。
 
 下町を決めるポイントの一つに加えたいと思ったのが、私が決めた下町の定説で家の前に鉢植えとプランタンを所せましと並べている家がある地域です。(余談ですが、定説という言葉はずいぶん前にセンセーショナルに話題になった方、死んだ人間をよみかえされると言う事がありました。ある宗教団体で常にファストクラスを利用していましたから、私も後一歩で営業に行く予定でした。)
 そんな所で、土地勘はいい方ですが、何度も道に迷い再度又、元の位置に戻って忠実にお勧めの道を歩かなければなりませんでした。これは、京都の道歩きと違って今までの経験した所、東京はタマタマ歩いた地域が道路が放射線上になっている所が多くて細い道を行くと元来た道にたどり着けない事が多かったのです。つまり、放射線上に道が広がっていくと言う事は入口が一緒でもどんどん隣の道は遠くなって行って、途中で横道に入っても隣の道にはたどり着けない事を今迄再三経験してきました。

 京都の人間が言うのですが、細い道つまり路地裏通りで両手を開いたら一杯の道、車も通れない道で京都先斗町より狭く、より東京の方が狭い所が多かったのと、T差路の行き止まりに何度も行く手を止められたのでした結果でした。東京は整備されている道と終戦のドサクサのままで、整備されていない道が極端にあると言う事でした。

 普通は地図無しで歩いて土地勘は良い方ですが、今回は地下鉄改札を出た所の地域地図と自分の持っている地図との照合にかなり時間がかかってしまったのでした。その結果、そこで新たな発見、暫くかかって東京の地下鉄にある地域地図は北が上で無い事に気がついたのでした。森下駅の地図は東が上なのに気付きました。ちょっと時間が掛り過ぎました!その後、門前仲駅でも北が地図の上に無いと確認しました。京都は北が上にあります、例えば、京都人に取っては、これは皇居中心としか考えられませんが、良く分かりません??

 じっくり地図を確認したつもりでA3の出口を出ましたが、直ぐに間違いに気付きました。最初の目的地の元祖カレーパンが売られていると言うカトレアを目指しましたが、どうも地図と道が合わないと気づきガソリンスタンドとコンビニ2ヶ所で方向を尋ねました。やっとカトレアに到着すると極普通のパンやさんでは無いですか。表の良くある旗に元祖カレーパンの表示があったので昼食前でしたが中に入り話のタネに買い求めようとしましたが棚に無いではありませんか。お店の人に尋ねると売り切れで次回は2時間30分の後と言う事でした。

  この量の少なさに食べられずに残念でしたが、アキラメました。次回はと思いましたが、もう次回はありませんので、どなたか買って食べての評価を代わりにお願いします。私は見つけ出すのに手間と時間が掛りましたが、見つけるのは簡単で森下駅の出口A7番の直ぐ近くです。

232 Cancunの紹介

2011-10-29 05:18:57 | 散策
 北方謙三が、カリブ海とメキシコ海の接点で神秘的で、その色合いが混じり合い神秘的だと言っていました。そのカンク-ンには良く行きました、そんな事とは知らない友人が行ったので改めて紹介ます。

 到着後、タクシーは乗り合いと通常のがありますが2‐3人程度なら乗り合いがお勧めです。ビルを出て右側に受付カウンターがありますからクーポンを購入すると、9人乗り位のミニバンに案内されます。街中ではタクシーは非常に多かったのですが、流しのよりもホテルのタクシーの方が安全で乗る前にドアボーイに事前に値段を確認すると良いです、普通はメーターが無いので交渉しました。ちなみにチップは料金の中に入っていました。

 カンクーンの半島が丁度7の字になっていると思ってもらって、7の長い方の横の部分は海は美しく皆プールで泳いで、波打ち際で遊ぶのは面白いけど、波が高くて泳ぐには適さないと思います。フェスタアメリカーナホテルは丁度7の字の角の部分にあってカリブとメキシコ海の境目にあります。
 
  バスも非常に多いです、フロントガラスにホテルリゾートと書いてあるので乗り易く、前から乗って後ろ前どちらからでも降りられます。降りる時はボタンを押すのですがボタンの数が少ないので車体をたたくと良いのです。
 殆どの人が地元の人なのでスリの心配があります。私も、後ろから降りようとして後ろの階段に近ずくと数人にブロックされて最後部の座席に座った他の一人にポケットの財布を抜かれ床に落とされその人の靴で踏まれて隠されたが、足を払い除けて無事に降りられました。でもそれ一回で、全般的には治安は問題ありません。

 少し距離がありますが、Xcara(シカレ)は真水の洞窟遊泳は面白いので是非行って下さい。夜のメキシコショウは6時30分から9時30分迄ありますが充実した内容のものですから最後まで楽しんで貰いたいアクションです。

 チェチェンイッツアはマヤ最大の都市遺跡なので是非とも見学をお勧めします。到着まで時間がかかるので何かはおる物を、バスを降りると日差しがきついので帽子が必要です。

 Swim with Dolphinsは時間に余裕があればイスラムムへーレツ、Wet'n Wildはホテル街の外れにあり、私の時はもういいではと思う位イルカと泳ぎ、ホテルから近いのでお勧めです。これも是非楽しんで貰いたいです。
半島の中の内海のラグーンでのJungle Tourは水上バイク(2人乗り)に乗ってラグーンの中のマングローブのジャングルの間を通り抜けてスピードを楽しみながら沖のサンゴ礁で遊泳を楽しむ(約2時間)これは是非参加して下さい。これを一番初めに行くと、シュノーケルは新品をくれてますので良いかも、水中メガネは貸してくれるので楽しんで下さい。

 買い物は資料が一杯ですが古くなったので、私の知っている所は車でも安く、歩いていける所も多くてどれも楽しめます。レストラン関係はEL Mexicanoがメキシコのショウレストランで折角メキシコに来たなら伝統料理と民族舞踊を楽しんで、Bogartsはクリスタルホテルの横にあり、食後はスパニッシュコーヒーを長い尺で注ぐのが面白く2人のロマンチックな夕食が楽しめます、そのホテルの前に、ハンフリーボガァードのカサブランカをイメージした像がありレストランになって直ぐに分かります。 
La Brisaはカミノリアルホテルの横にある、魚の看板が、目印になりカリブ海を見ながら手頃な値段で食事が楽しめます。
 
 いずれのレストランもフェスタアメリカーナから歩いていける所にありますので、味も美味しくてワインもボトルで安くて行くと楽しいです。

 本当のリゾートを楽しむならカリブ海側がお勧めです、クリスタルホテルのプールサイドからのカリブ海の眺めは最高です。何時もより長くなりましたが、素晴らしい事太鼓板です(いささか古い)。

 

 

231 ニューヨーク あれこれ

2011-10-22 05:55:41 | 散策
 二ューヨークに本社がまだある35年程前、飛行場からバスでダウンタウンに行きました。そして、市中に、バスが到着、そこにいたポーターと名乗る男が荷物を運んでくれましたが、その男が先に立って人気の無い所で法外なチップを要求したのでした。私一人なら先ずポーターを雇わないですが、その時は3人ずれで人に頼っていた自分が悪かったのです。その時の恐怖以来、ニューヨークに行く時は絶対メーター付きのタクシーを利用しています。 

  別の時、ホテルに一泊して、ラガーデァ空港に朝一番に用事があり、まだ暗い時でしたがホテルの前からタクシーを捜していると、凄い色気のあるお姉さんが声を掛けて来るではありませんか。流石ニューヨークの朝は違うな、早くからこんな女性がいるとはと凄い所と驚きながらタクシーに乗りまし。
暫くタクシーの運転手と話していて、こんな時間に何をしに行くかと聞かれました。勿論仕事でとその時、時間を聞き、ビックリ??夜中の2時でした。時差ぼけと時計の狂いで生じた間違いでした。大体ホテルの前にタクシーがいないのが変と気づくべきでした。

 又ある時は、JFKからラガーデァ空港まで空路ヘリコプターで所要時間約8分行った時でした。降りて手荷物を待っていると出てこないではないですか、荷物はヘリコプターに忘れられマンハッタンを一周回って、一時間30分も待たなくてはならなかったのでした。幸いラガーデァ空港で研修がありましたので、時間を過ごせましたが、8分の飛行にとんでもない事でした。
余談ですが、それから間も無くヘリコプターが墜落してその会社は潰れました。飛行機は乗っても、余りヘリコプターは乗られていないと思いますが、マイクロバス位あるヘリコプターで、乗り込むと直ぐに数十メイター一挙にあがる感じは爽快そのものでした。
 
 プライベートで行った時の事、ニューヨークに上手く一日早く着いて(つまり切符が無償航空券でスタンドバイですから予定よりもLuckyに早く着けたのでした)、ホテルが満室でチェックインできませんので別のホテルを紹介してもらった事がありました。
 最初のホテルが安ホテルで一杯、そこから紹介して貰ったそれよりもズート安くて、チェックインする所が銀行の窓口のような、狭くて30cm足らずのセキュリティもガッチリ映画のTAXI DRIVERに出て来るそのままの所でした。勿論ロビーも無くて直ぐ横にあるエレベーターは頑丈なドアが付いていました。娘は怖がるし、部屋はゴキブリがいそうでシャワーだけだと言う部屋に泊った事を思い出しました。色々な経験と思いますが、911のテロ1ヶ月前の事でした。ワールドトレードセンターには、行かずに自由の女神から写真だけ撮りました。 

 話は変わりますが、タクシーでNYCダウンタウンから空港へ行く時にどの道が良いかと常に聞かれますが、通常は3つ言われてどれだか分らないので、一番初めに言った事を繰り返しで言う事にしています。いつもこれですから、良い加減どのルートが良いのか覚えれば良いのですがね。 

 余談が多いですが、ホテルでは、ポーターを呼ばずに部屋の場所が分らずに結局ポーターを呼んで苦労した覚えがありますから、絶対呼ぶ様にしています。
 

230 ダラス

2011-10-15 06:56:03 | 散策
 ダラスは本社と研修センターがあるので、仕事だけで無くプライベートでも良く行きました。本社がニューヨークから移って来て、東京から、四国の高知に行く様な事に違いないと、辞めた人も多くいたに違いないと思いますが、ここに移って来た人は大都会から田舎と言っても、ダラスはダダ広っい所に来て満足している様でした。

通常ダラスでは日本人の先輩に家にやっかいになりました。その人はアメリカ人と結婚したのですが、彼女は子供ずれでして、その子が以前の旦那が黒人で、ベトナム戦争で子供ができなかったので、黒人と白人の間に生まれた子を、養子として取ったと言う事でした。つまり、その子が連れ子であった為、日本人と白人の間の子が黒人と言う、凄くややこしく複雑で、日本では現在起こるはずが無いでした。

 さてさてダラスですが、空港近辺でタクシーに乗ると毎回ガソリンを補充するので、一度尋ねた事があります。客を乗せるとガソリンを入れると言うではありませんか?ガソリンは安いのですが、常に満タンにする程余裕がないと言う、信じられないような事でした。
 ダラスで一番凄いと思ったのは、道幅片側5車線位ある道路を100-200メートルの所を横切る、横切らなければモールに行けない所があるのでした。毎回ですが、凄い挑戦でした。

ダラスの街中で飲んでいると、市電が走って来ました。その運転手を見て皆ビックリ、元副社長が運転していたのでした。定年後週に1回運殿していると言うアメリカだからできる事でした。サンフランシスコで週末牧場を経営、週に何度かダラスの交通会館のお世話と電車の運転手をやっているという事で定年後を満喫しているようでした。なんとも羨ましい話で、日本では出来そうにありません。私の様に定年の後も僅かな給料で働かなくてはならないのと大きな違いです。

 空港で良く見かけるのが、カーボーイハットをかぶって馬で空港に来たに違い無い様な人を見付けられるのもダラスです。それと、びろうなお話ですが、トイレですが特に空港で足が日本人にはつきそうに無い位高くなっています。日本は反対に低すぎると思うのです。

 営業をやっていた昔、70歳から80歳位のお婆さんのグループが、カリビアンクルーズに行ってくれました。そのグーループはお金がかかっても飛行機は乗り継がないと言う事で、ダラスに仕方なく帰る時に宿泊しました。その旅行が終わってから、旅行社の誘いで昼食会に参加したときでした。 
 皆、一応に旅に満足していましたが、私が今回の旅行で何処が一番良かったですかと、聞きました。多分、カリブの海が美しかったとかそんな話を聞くつもりでしたが、なんとダラスが総ての人が一番良かったと言うではありませんか。私自身そんな答えを期待している訳では無かったので、ダラスで日本人で最も有名な場所は、ケネディーが暗殺された所ですが、その時は、町が美しくてゴミが一つも落ちて無かったと言われました。
 それから気にしてみると確かにゴミは落ちてなかったのでした。流石に感受性が違うのか、金持ちのお年寄りの方は、そんな風に旅を楽しむのかといい勉強になりました。
 
 暑い夏の昼間には通りに歩いている人は人っ子一人いません。人もいない、ゴミも無いと言う町、それからステーキも安い、そんな町ダラスです。皆さん一度行って下さい。

229 墓場から結婚式?

2011-10-08 05:58:23 | 散策
 京都で友人の結婚披露宴があるので、披露宴に出る前に久々に我が家のお墓に参りに行って来ました。と言う訳で本当に墓場から結婚披露宴になってしまいました。
 いつもの様にお墓にお参りに行くと、たまたまでも、初めて同じ石材店のTシャツを着て2人で掃除している人たちを見ました。そこで我が家のお墓も掃除して貰えるか聞いて見ると自分たちでは正確な事は言えないけど会社に聞いて貰いたいとの返事でした。これは世の中面白い良い商売があると思いました。物心付いてからお墓参りに来ているけど初めてそんな掃除の仕事があると知りました。

 お参りの後、普通清水寺に寄って帰るのですが今日は一人ですので大谷本廟の方に降りて行ったのですが、何時もは気付かない所に地下道があるので降りて行くと小学生の頃親と良く馬町から来た事がある渋谷通りに出たのでした。そして山王神社、少し行くとかなり大きな正林寺、その右奥の道を行くと新しい街並みがあってナカナカ見ごたえがあります。初めて来たのと変わらなかったでした。いつも両親がここは京都市長だった人の家と言ってた辺りを歩いて行きました。

 そこから又戻り京都女子短大、付属小学校、寮、高校等あって京都女子大学と学園地域となります。このあたりは今まで来た事がありませんが、土曜日で人も少なくて落ち着いた所でした。新日吉神社を見てから、坂を下って行くと女子学生が気に入りそうなレストランや喫茶店があって路上駐車している車が何台もありました。
 途中で智積院を北門から入りましたが、ここも門前は知っていますがかなり広いので驚きました。そんなに見ている間がありませんので拝観料500円は払わずに、そしてレストランに値段を見に入ろうとしたのですが靴を脱ぐ必要があったので表にでました。
 東山7条を西へ南角に昔は無かったハイアットリージェンシィー京都があったのには驚きました。高さを制限したかなり落ち着いた建物でした。他の建物ができるより凄く良かったです。その前が京都国立博物館でそこにあるロダンの考える人は大好きなので学生時代に良く来た事があります。東京は上野で一般の人が見られる所にあるので、やっぱり首都に住んでる者は良いなと感じました。33間堂を過ぎた所で向かいに渡り、いずれは料亭わらじやに来たいなと思いながら京都駅を目指しました。
 そこで気づいたのですが、大阪の比では無く外国の人がかなりな割合ですれ違って、やはり京都は国際都市でした。

 七条通りを烏丸まで歩いて、左側に京都駅が見える所まで来て又驚きですが、京都も変わったものです淀橋カメラがそれなりの雰囲気でそびえ建っているではありませんか。人の流れも私のいた京都と違いすぎました。京都駅をくぐってAVANTIショッピングがあり、人の流れも八条口も変わったものでした。恥ずかしながら、高校まで京都駅より下(南)は田んぼと思っていた事を思い出しました。

 今日はその横のホテル京阪で65歳の友人である新郎と44歳の新婦との結婚披露宴が行われるのでした。タイトルの如くに二人が墓場迄一緒に行ける事を願うだけでした。この欄にも何度か出て来た話題に事書か無いMさんの披露宴でした。平服と言う約束でたまたま涼しい事もあって上着を着て行ったのですが、カッターを洗濯屋さんに出して良かったでした。ネクタイ無しで行ったのは私だけで、なんと90人を超える人が正装で着席していたのでした。多分立食で形ばかりの披露宴と思って行ったのですが、大違いでした。ただ来ている人は2‐3人(含む1名の1ヶ月の赤ん坊)の若者を除けばそれなりの方々が座っていました。
楽天家のMさん御自身の独演的な司会で、御自身の過去の旅行談で嫁さんが霞んで見えたのは私だけだったでしょうか、取りあえずお二人の幸せを祈るだけでした。
 
 私は帰りに大阪でオータムジャンボ宝くじを買って帰りましたが当たる事を願って止まない事でした。
 

227 話 フレデンスボーの思いで

2011-09-24 05:42:01 | 散策
 デンマーク、コペンハーゲンから電車でどれくらい乗って行ったのか、フレデンスボーで子供の世話をして勉強していた事がありました。そこで4-5ヶ月滞在した当時、その施設を去るとき‘さよなら’も言わずにみんなに黙って出て行った事を今でも失敗で悔いて淋しく思もっています。福祉の勉強の為滞在したフレデンスボーのボーンイエメ ロナリュウは忘れ難いインパクトを私に与えました。そもそも別れが寂しいからとそうしたのですが、その時一人で駅に行き雪が積もって事を思い出します。

 0歳児から3歳児と4歳児から小学校までの何らかの理由で家庭に恵まれない子供たちの施設でした。フレデンスボーはそもそも王家の避暑地で、その立派な公園のような林の中に子供たちを連れて行ったりした事を思い出します。子供達にちょっとでも分って貰おうと、必死でデンマーク語を勉強したのでした。夜は飲んで、皆で踊ってと楽しかったけれど、毎日が忙しく戦争の如く明け暮れしていました。言葉が話せないので、身体でカバーしようと思い、例えば机の上からジャンプしてくる子供を受けるとか、それも何度も繰り返す為に数に制限も無く何時までも続き、若いけど疲れましたが、今となっては良い思い出です。
 冬なのに部屋の中ではTシャツで汗だくだくでした。朝早くから、倒れそうになって子供の世話をして、本当に忙しい仕事でした。殆どのスタッフが施設に併設した建物に寝起きしていました。

 朝起きると、使ったオムツの山(今思うと、現在のような便利なオムツがありませんので、多分貸しオムツでしたが、私より朝早く起きていた人がいたのに今気がつきました)がガラスの向こう側に見えていました。そこを過ぎてみんなのいる所へ行くのでした。その途中で、便器を8個程のオープントイレで便器に腰掛けた子供たちの一番手前の子が戸を手で押しながら、奥の子は顔を乗り出して、男の子も女の子も全員で可愛くグッモン(オハヨウ)キタ(私の名前)と可愛く挨拶をしてくれるのが毎日の始まりでした。それが、唯一の楽しみでした。

 今でも不思議なのが、朝食の時に子供たちは争って一番初めに青カビの様なもうカビ花が咲き始めのパンを食べるのでした。他にも白いパンがあるのに、当初、食べなかったのですがそんなに美味しいものならと食べてみました。やっぱり青カビでとても食べられたものではありませんでした。舌の感覚が違うとしか言いようがありません。大体今まで食べたものも全体に甘かったと思いました。

 デンマークの子供が可愛いと思ったのは一杯あります。12月クリスマスの前に今でこそ探せばあると思いますが、ロウソクに25の印が付いていて、毎日1メモリずつ火を付けてメモリを消していくのに、各テーブルでみんなが大騒ぎしていた事でした。リサと言う子が凄くなついて、その子の悩みも聞きましたが、殆ど分って無いと泣かれて、これではいけないとより一生懸命デンマーク語を勉強しました。

  今日は前に言ったことが多いですが、町の通りの突き当たりに、雪が積もったガラス越しにウサギを吊るした肉屋さんがあって、本当に童話の世界のような所でした。今どうなっているか知らないですが、多分時間が止まったような雰囲気のある町ですから変わらないと思います。

226話  スコットランド Ⅲ Prestonfield House Hotel

2011-09-17 06:01:50 | 散策
 ロッホネスからエジンバラまで勿論車で行きましたが、エジンバラではどのホテルも一杯で仕方なくJTBのガイドブックでエコノミーの欄を見て電話を何軒か探してどれも取れずに途方に暮れていた所、Prestonfield House Hotel(今日初めてHOTELと知りました)が空いていると言うので値段も安くてさすがJTBと、取りあえず良かったと場所を聞いて車で行きました。

 その説明通り行くと、門から建物まで100メートルを超える道があって、ゴージャスな感じで、どう考えても安価な値段で泊まれるエコノミーではありませんでした。まず、今の服装のままではさすがに入りずらくてジャケットを羽織って、それなりに着替えました。フロントには立派な人がいて、2m足らずのカウンターが通路の右横にあるだけでした。まず、そこのホテルが正しい所かどうか聞きました、何と間違いありませんでした。

 広い通路になっているロビーの奥の2階には、左右に橋の如くアンテークな通路があり、そこやあそこに彫刻や絵画がありました。思ってもいなかった凄く良いホテルでした。
 ダイニングルームには8人がけの細長の丸や楕円形のテーブルがあって、その回りには二人掛けのテーブルが上手くセットしてあって、その上には赤のロウソクが各所に飾ってありテーブルクロスは真っ白でした。椅子は赤と茶で各テーブルが分けてありました。そして、その壁にこの家の人たちと思われる肖像画が所せましと掛けてあったのでした。

 夕食はロウソクで飾りつけた2人掛けでコース料理を頂き(何を食べたか忘れました)、もう終わりかと思ったら、2階にお茶を用意していると言うではありませんか。 そこで2階に行くと、暖炉もある広い広間で、今度は上品な黄色とブルーの椅子が、小さなテーブルを間に幾つもありました。端にはソファーが置いてありました。2人でコーヒーを飲んでいると隣の人が声を掛けて来たのが、アメリカのゴルフ場オナーでした。このホテルを取る為に市内にホテルを取ってあるけど、やっと1年も前に予約をやっと取ったので泊まれたけれど、君たちはどうして予約したかと聞かれました。
 そこで、正直に日本のガイドブックで今日予約したと言ったのでした。すると彼は予約が取れないので、一年前にやっと予約を取ったというではありませんか!君達は幸運な二人と言われました。そんな人のいるホテルでした。

 部屋に入ったら、思ったより狭いけどベッドの上には、立派な天使の彫刻が吊るしてあり、部屋の内装は凄くアンティークでした。バストイレは部屋の外にありましたが、これは安いホテル代で仕方ないと了解しました。日本のスタンダードのホテル料金で2食付きでは文句も言えないのでした。バグパイプの音が聞こえましたが、多分ショウか何かをやっていると理解してました。
 
 翌朝、部屋での朝食を楽しみ見していたのに来ないので、フロントに言いに行くと直ぐに持って来てくれたのですが、食べる所が無いので小さなテーブルで食べました。

 ホテルを出て思わずビックリ、孔雀が何匹か忘れましたが庭にいたのでした。改めてホテルの外観を見ると、JTBは実際には見に来ていないに違い無く、本の中でカントリーハウスをリホームしたのは間違いで、別荘をそのままにコッテェジかビィラと言う方が良いかも知れません。

 その後、スコットランドで聞く最高のアメージンググレースをバグパイプで聞きそして、ロンドンへ行きましたが、総ての思いでがこのホテルでした。

 

225話 スコットランド Ⅱ

2011-09-10 05:00:01 | 散策
 ロンドンからM1を北へ初めてスコットランドへ、英人の友人ベントが動乱のベルファストへ行くのと途中まで一緒で、夜に出発して寒くて雨が降っていたのでウオッカを飲ましてくれた事が懐かしいでした。それが学生時代の事でした。

 今度は2度目、マンチェスター空港からスットランド地方に行くと、道路はほぼま直ぐに近くて人も殆ど見掛けず時速50‐60キロでカーブもブレーキも踏まずに行けました。一般道ですが、本当に良い道路でした。今回も学生時代よりも金は持っているけれど、相変わらずホテルは予約無しで安いBB(べッドアンドブレックファースト)に泊まるつもりで気楽に行きました。今なら予約していても、チェックインの時間が来ればそわそわしているのに、その時は強気に予約無しとは信じられない事です。

 そこで思いでの地フォートウィリアムは湖を前に美しい所、その昔まるきり車が来ないのでその風景に心を奪われた因縁の地でした。そしてこの時も変わり無く出たとこ勝負、昔は地図なしで、良く旅したものだと思います。今回もそれに近くて、車が1時間に1台と言う寂れた所、その昔の事ですが、ヒッチハイクをしていて車がナカナカ捕まらずに途方に暮れた、目に付いたのはどんな所か知らない熊公園の看板が、何故か頭に残っています。

 スコットランドに近づくと、今ならTVでも映画でも見られる低いなだらかなな木も無い山が両側にあって、さえぎるものが何にも無い所に真っすぐの道が一本ありました。道は登り下りしてるだけになってきました。
 夕暮れ近く、見渡した所、我々の車だけでした。そこを車で140-50kmと飛ばしていったのです。今なら怖くてそんなスピードを出せるはず無いですが、今から25年前は馬鹿な若さで、元気があったと言うより怖さ知らずと言った所でしょう。良く事故を起こさ無かったものと思います。

 とりあえず寝る所を探そうと、BBの看板を探しました。何軒か探してここにしようと泊ったのですが、シャワーしか無く、9月頃だったと思いますが、夜に冷たい水のシャワーをかかりました。今思うと、外国の人のシャワーは朝にかかるのですが、日本人である私とすればやっぱり夜に汗を流さないとスッキリ眠れないのでした。兎に角、他の事は忘れて冷たさだけ覚えています。

 この旅行中に、私が昔ヒッチハイクに車がつかまら無くて苦労していた時の事を思い出して、誰でもいいからヒッチハイカーがいたら乗せてあげようと思いました。いざ乗せる段階になって、やっぱり綺麗で無難な人を乗せたいと思ってナカナカ車を停められなかったでした。ロッホネスに行く手前でなんと銀髪の派手目のおばあさんがヒッチハイクをしていたので、やっと乗せる事ができました。
  
 そのおばあさんはスコッテシュ訛りがひどくて分かりにくい言葉でしたが、ネス湖迄の道中、観光案内をしてくれたのでした。その時はスコッテシュはどうにか理解できましたが、今どうか分かりません。おばあさんのヒッチハイカーは珍しいので事情を聞くと、週末に孫に会う為にと、毎週ヒッチハイクをしてる勇ましいおばあさんでした。時々停まって風景を楽しみ、あそこの城が誰それと説明してくれて、なかなか楽しい旅を続けられました。しかし、日本で孫に会う為にヒッチする人がいるとは思えませんのでやっぱり凄い人に会いました。

 

224話 25年前 再びスコットランドに

2011-09-03 04:30:00 | 散策
 ついこの間と言いたくなる、25年程前に再びスコットランドに行った時の事ですが、アメリカのポートランドからシカゴ経由で英国マンチェスターへ飛びました。シカゴで天候が悪くて上空で待機させられました。ただでさえ乗り換え時間が少ないのに降りた時にはもう残り時間は少なくなっていました。航空券は取り消し待ちスタンドバイの為に、荷物を一度手荷物引き取り場で受け取ってから次の便まで行く必要がありました。荷物を引き取ると次の便まで、もう時間はありませんでした。

  そこでポーターに相談した所、荷物を持ったまま一緒に走ってくれると言うのでした。それからが大変で、今からチェックインカウンターに行っては無理だと、スーツケースをカートに載せてダッシュでシカゴ空港の人ごみの間をゲート迄走って行きました。もう最終の案内が終わり、乗客が殆ど乗り終えていて、最後の私たちだけとなりました。

  普通ならノンレベニュー(無償旅客)で手荷物は大きく、とても受けつける時間ではありませんでした。ましてゲートチェックイン(搭乗口搭乗手続き)で、我々のチェックインの為に、エージェントが時間に追われて焦って何度かつまずきました。その時に、後ろの責任者と思われる女性に、優しく‘落ち着いてゆっくり’と言われて、どうにか無事手続きを終えました。私がそのエーゼントなら、到底間に合っていませんでした。これは本当です、言わなくても分かっていますね。

  航空会社で営業やっていた時分で、まさか自分が空港業務をやるとは思っていなかったので、私がゲートエージェントをやった後でしたら、変な東洋人がやって来た位でゲートで断ったかも知れません。こんな場合はまず、最初からあきらめさしていたと思いますが、その時はやってくれて有難うと単純に思っていました。でも、その責任者はとてもスマートでした。さすがに我が社、この時程、優しく素晴らしいと思った人は無かったです。

  最後に スーツケースを預かってくれて、もう他の人の荷物は積み込み終わった後で、荷物はB767のファストクラスのストックルームへと押し込んで無事出発しました。飛行機に乗れたのは出発5分前でした。

 総て古き良き時代の事で、今ならセキュリティで到底無理だと思います。昔は、航空会社のIDを持つだけでセキュリティもパスしていて簡単だったのに、旅行も難しくなりました。

 こんな事をして、マンチェスターに着きそのままレンタカーを借りてスコットランド迄行きました。私は2度目ですが、車で行くのは初めてでした。イギリスでの運転は日本と同じ左側通行だから問題は無いと思って気楽に考えていたら、ラウンドアバウトという信号の無い交差点に大変苦労しました。そこを運転して回りながら、自分の出る所を探してひやひやしましたが、それも何度か過ぎて行くうちに、時計回りに回るパリの凱旋門の交差点と大きさと反対回りが違うだけで、殆ど同じなのが分かりました。一周目で出無くても良いと分かりました。ラウンドアバウト内では右からの車が優先、停車禁止、出る時には左ウィンカーを出し外へ出るを守っていたら、なかなか良いシステムだと思いました。



 

223 子供

2011-08-27 05:34:02 | 散策
  私の子供の頃は、子供が多くて小学校で5クラス中学校では確か55人のクラスが12か15もあって、つまり何組あったか忘れる程クラスがあったという事で、講堂を4つの部屋にベニヤ板で分けて勉強しました。当り前とは言え、今なら2クラスに分かれているのを一人の教師が、それを55人も見なくてはなら無いとは、大きな違いです。何を勉強したか忘れて、唯一夏は暑かったのを、覚えていますが、その当時の事は余り良く覚えていません。現在マンションで3-4人も子供がいる家族を見ていて良く頑張っているなと思う様になって来ました。

 私は、とても気楽な小学校生活を送りました。日本で一番古い部類になる明治2年創立の待賢小学校も今や廃校となしました。京都市内の小学校は過疎地帯と同じで廃校又は統合されているのです。今や地域の公民館となっている小学校で以前確か20年程前に学年同窓会がありました。その時、教えてもらって分かりましたが、明治元年は維新で学校が明治2年に出来たそうです。学校は家から歩いて直ぐの所にありました。
  
  夏休み御所に毎日蝉取りに行った事は以前も言いましたが、現在の様に木に気持ち悪い位に10何匹もとまっていて、手で捕まえられる蝉では無くて、カタビラ(くまぜみ)は捕まえたら誇りとする程でした。季節によっては そこで業者が木を刈ります。その木で屋根のある陣地を作っていました。毎日大変良く遊びました。御所の建物の回りを一メートル程の小川が流れていますが、砂砂利でせき止めてダムを作るなどして、なんとお金の掛からない遊びでしょう。とりあえず、それが 極当り前の時代でした。

 これを書いていて近頃思う事は、当然現在とは大変違っているという事です。まして、沢山の時代小説を読んでいて思いますが、その当時はきっと大勢の子供達が間引きされたに違いないか、今なら直る様な病気であっけなく死んだ事でしょう。徳川将軍もあれだけ側室がいたにもかかわらず、子供を養子としてとらなければならない事になったのも驚きでした。それと、間引き虐待が今よりもあったに違いないです。子供は生き残る事に大変であったに違いない。

 ちょっと前迄、余り目を子供に掛けなくても普通の事と思っていたと思います。又、掛けられなかった言うべきかも知れません。親たちが生きるのに精一杯だったのでしょう。現在は社会が複雑になってしまって、そうはいかなくなってしまいました。私は別の意味で親から自由でほったらかしでした。そして子供が生まれて直ぐに殆どが亡くなると言う時代が過ぎて、中国の1人っ子政策で育った子が、大事にされているのが当然と感じられる様になって来ています。 

 日本の場合は、少子化は子育て教育にお金が掛過ぎるのが、原因の理由の主な所かも知れません。だとしたら義務教育の間は、教育費をできれば無料にすべきですが、他は別に構わない方が良いのでは。国の赤字ばかり増え、年金と生活保護費が金額に変わらなくなって、要求が凄くなっています。それだけ、社会保障が充実した事になるのでしょう。その社会保障費は誰が払うのでしょう。このまま行けば、団塊の世代は死ぬまで間違いなく働かなくてはいけないと思います。年金も少なく、ああ しんど!

年かなー、どうも、愚痴になります。少し、納得がいかない事が多くて話が飛びましたがお許し下さい。相変わらず熱い、夏バテかもしれません、皆さんも気をつけて下さい。

222 サッカー

2011-08-20 08:00:00 | 散策
 関西ダービー‘セレッソ対ガンバ’の試合を長居競技場で見てきました。そこで、思い出したのがロンドンのホワイトシティで行われたゲームでした。

  ホワイトシティのサッカー場は人人人で一杯、勿論全員立ち見でした。そもそも席が無いのでした。升席宜しく、前に倒れないように、目の前には幅2-3m高さ1.5m程の鉄棒が一定の間隔に備えついてるだけで椅子が無く何も装飾が無いと言う所でした。イギリス人の友人が、その頃オリンピックで話題になったドイツのサッカー場を馬鹿にして、席を作るから6万人しか入れないとボロカスにに行っていた事を思い出しました。サッカーは立って見るものだと教えて貰いました。今でも、日本では6万人も入れる施設がどれだけあるのか、又、住んでる近くで地域一体がアーセナルFCのファンという箇所があり、家々がチームの飾りつけをするので、それは素晴らしく、又その凄さを知った訳です。サッカー大国の実力がこんな所にもあるのでした。

  英国ではトップリーグが確か25チームありまして、何と下部全部で125チームあると言うのでした(定かでありません)。テレビを見ていると、どのゲームも全て観客で一杯ではありませんか。大体、当時は日本では野球で、巨人戦が5万5千で満員と言っている時でしたから、試合の内容は覚えていませんが、TVで見ている限りどのゲーム十万人が入っている様で、信じがたかった事を思い出します。

  それと、電車から見た欧州各地のサッカー場の芝が美しい事、これは日本と気候の違いだとズート思っていました。しかし、Jリーグ開幕と共に日本が貧乏なだけだと気づきました。日本も同じ様な芝のサッカー場にできるとは、その時は考えもしなかったでした。

  私も会社に入った当時に、三井航空のサッカーに参加した事を思い出しました。高校時代に体育の授業で1-2度サッカーをしたと言ったのが運のつきで、それなら即経験者、(関西の2部リーグは後で知りました?)サッカーに補助要員として来て下さいと言われました。まあ、暇な時でしたから、補助ならと軽い気持ちで参加しました。
  当日は、何と人数が足りない為にメインではありませんか、今の様にサッカーを知りませんからボールを追いかけてフォメーションなんか関係なくみんながボールを中心にただただ走りました。サッカー場は勿論土で、若い時ですが、それでも10分も走ったら息も絶え絶えでした。お陰で終わってから1週間階段の降りるのに苦労した事を思い出しました。

 セレッソ対ガンバの試合は長居球技所でありましたが、初めて行った長居でしたが、地下鉄御堂線を降りてくる人が皆ガンバのTシャツを着ていてやっぱりガンバは人気があると思いました。ガンバ応援ばっかしと思っていたら、なんと横の人がセレッソのユニホームに着替え始めたのでした。30分前に球場に入るとガンバのホームである万博と大違いで大きくて、ナイターに映えた芝も緑のじゅうたんの如く綺麗でした。席はアウエーの自由席で何処にも空いている所が無くて一番上の通路に腰掛けました。風が心地よいと思って、良く見ると、向こうのセレッソの人数は我がガンバより多いでは無いですか?良く考えてみれば、セレッソファンはJRで来たと思われます。全体で良く入って総勢3万7千人以上いたのでした。 
 試合は1対1で終わりましたが、ザッケロー二監督が見に来ていた事を後から知りました。 

  

221 3つ前218話 の お詫びと訂正

2011-08-14 12:22:41 | 散策
 218話で述べた脇役の話ですが、正しくは中村是好(ぜこう)が正しく、私の読み違いにありました。訂正、お詫びとそれと先生に謝らなくてはいけないです。先生の文章を早とちりしました。
  
つまり、コピーはこの様になっていました。
 音読みをすれば同じだが、‘是公’で‘よしこと’、夏目漱石の友人で満鉄総裁や東京市長もやった‘中村是公’、この人にあやかったかは分からないが、‘是好’という芸名はユニークである。
 中村是好は明治33年12月に佐賀県の生まれ、寺の出で京都の禅宗系の学校でしばらく学んだが、彼自身が述懐するには‘私は根が禅寺の小僧さん、20歳になって釈迦と意見が合わず俳優に走った’と芝居の世界に身を移した。
 
 以上にもっと詳しく知りたい方、お知らせ下さい。

220 環境

2011-08-13 06:00:00 | 散策
   今まで航空会社で、営業、空港業務、退職してからマンションの管理員とやって来ましたが、環境が私を作って来たと思います。環境に左右され易いのです。一番大変だったのが、そとから見たら簡単、空港業務でした。時間に追われて、皆に迷惑を掛けて本当に厳しかったです。座席の割り当て、チェックインから出発ゲート、手荷物受け渡しと一通りこなしたのでした。今までと関係無く自分の地位と言うか人の見る目も違って来たのでした。自分で勝手にそう思ったかもね!

  人間の環境と地位とは、多くの場合生まれた所に左右されますが、ましてや昔は下層階級に生まれた人々は悲惨なものがあったのに違いないと思います。徳川時代は約250年間、士農工商と決まっていた時、その枠から外れたら死が待っていたと推測されると思います。現在その酷い状況は知る由も無いです。そうでなかったら、この長い間この日本人が殆ど発明らしき物を考えて作らなかったとは信じ難い事です。それ程厳しい管理社会だったのでしょう。
  
  今、遅いですが司馬遼太郎の‘竜馬が行く’を読んでいますが、あの時代も上下の厳しさは類を見なかったしょう。総て想像ですが、しかし、私のその想像の上を行く作家はやはり大した人たちです。劇作家やシナリオライター、勿論、小説家は想像力の固まりと思います。寝室、戦場での語り、あるいは内緒話を見て聴いてみたように言うではありませんか、昔の話は資料の1行あるいは1節、一言、又は、何も無い所から、会話や話を作っていくのです。こんな事を考えていると小説も面白くなくなりますが、これって凄いと思いません。今からでは考えられないですが、どれだけ頭が良くても取り上げる意見はごく一部の武士の意見だったと思います。これは数多くの人たちがただ生まれて、日々の生活に手が一杯で考える事迄も考えない社会、そして死んでいったのでしょう。休みも盆暮れで、祭りの時は今の比では無くその日の休みの為だけ楽しむと言う事で盛り上がり方は想像もできません。今の私も変わらないと言う事で、会社が盆の休みを取るのに理不尽にもありません。そして、今頃になってどう生きようか考えている様です。そういう意味で江戸時代の人間より長生きした分、ちょっとましかも知れません。
  
  現在、環境と地位が人を造ると言うのが典型的に出ているのが首相と言うことになるでしょう。しかし、首相らしさはもう何代も前から無くなっています。首相も前はもう少し元気があったと思います。この頃は、自分で言う言葉に注意してだと思いますが、原稿を間違いなく読んでいると言う始末です。間違いと言うものは、信念があれば大きく違わないはずですが、仲間内からも野党からも散々言われ続けて失敗が怖いのでしょう。又、言葉尻を捕まえて、文句を言う野党もどうしようもありません。

  今回見た管首相は、野党にいる時あれだけ自信ある顔をしていたのに、今や映し出される顔は疲れきった顔でした。しかし、粘りには驚きです、今までの首相はどれも簡単に辞めて、セコイ人は365日やって報奨金だけキッチリ貰ったのに、嫌味でなく、未だに首相は続けているのは偉いとしか言い様がありません。日本をどうにかして欲しいですが、粘り強さにただただ恐れいるだけです。
  良いですね、3つのお願い聞いて、聞いてくたら...  管さんの顔は以外にスッキリとしていました。