旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

482 世界のトイレ (毎週土曜日に更改しています)

2016-08-27 04:30:01 | 思い出日記
 お手洗い、雪隠、厠、手水、 はばかり、トイレ、便所、等々、様々な呼び方があるものです。近年は公衆トイレには落書きが無くなって卑猥な書き込みが無くなって日本も国際レベルになりました。
 世界に目を向けると、色々なトイレがあります。私の知っている古い話で失礼、社会人になってマドリッドに日本航空就航記念で切符が手に入り欧州に久々に行った事がありました。そこで、途中でアムステルダムで現地で近畿日本ツーリストの知人に世話になり、そこの寮に泊まった時でした。
 それは普通のトイレで、水溜めが天井の方にありパイプで繋がっていました。どこが変わっているかと言うとボタン、ひも等水を流すものが全くありませんでした。前にあるパイプを両手で引き上げると事前に聞いていなければ入ってから焦るところでした。
 ますます古く、学生の時、デンマークで皆で郊外に泊りがけでキャンプに行きました。その時、水洗では無くて、比較的広い小屋の中に2つの穴が開いている所に座ると言うものでした。北欧は進んでいる、2人が並んでできると思っていたのですが、考えると一方が一杯になったら他方で用をたすものだと勝手に考えています。
 イタリアの田舎の公衆トイレで、便器は無くて足の置き場だけが高下駄のように高くなっていて穴が開いて、水が全面にド~と出てきて全てを流すというものでした。これなら日本でも汚さないかも知れないと思ったのです。+
 懺悔しないといけないのが、同じく学生の時にスペインの博物館で初めておばさんがトイレの手洗い場にいて、出る時に初体験のチップを払う必要があったのですが、払わないで出て、大声で怒鳴られたました。日本人として恥ずかしいと、その後トラウマになっています。

 有料トイレで思い出すのは、サンフランシスコで、無人の有料トイレに入った所、一つの個室だけドアが無く、オープンになって無料なっていた事でした。空港にカーボーイハットを当然のようにかぶってくるダラス空港での便座は、爪先だちになるほど高いでした。

 昔、ビルマ(現ミヤンマー)でマイクロバスで廻った時に、2人の50歳代の女性がトイレが無い田舎で、広い平原で20m程、皆から離れた草山の後ろで用をたした事がありました。

 中国は未だ行っていませんが、縄がトイレにあったと聞きました。日本でもちょっと前迄、立ち小便当たり前でした。当然、全て恥ずかしくてできなくなりまた。生活が安定して恥ずかしいという事が道徳心の向上になっていると思います。
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476 思い出色々 晴れ男と雨男(毎週土曜日に更改しています)

2016-07-16 02:52:54 | 思い出日記
 現役時代、京都に月に2度ほど営業に行っていました。たった1度か2度行くのに、その都度、雨か雪、夏にはにわか雨、何時も天候が悪いという状態でした。しかし、旅行に行く時には傘を持って行った覚えがありません。仕事に向いていない仕事雨男、反対に遊び晴れ男でした。

 その反対に、ハワイに行くと自分の直ぐ向うは晴れているのに自分の周りだけ雨と言う方おられました。仕事の先輩で、その方と一緒にマウイ島にテニスをしに行った時の事でした。テニスボールが前に飛ばない程の風が吹き、コートの横の比較的に大きな木が折れた事がありました。雨男と晴れ男が一緒になった場合の結果でした。

 学生の時、ザルツブルクで雨の中をポンチョを被っていた事。慣れない初めて一人旅で、考えると要らないもの家財道具一式奇、何でもリックサックにいれましたから重かった事をよく覚えています。一応雨対策をしていたのです。その後はポンチョは何処かへ。雨の多いことで有名なロンドン滞在中でも、勿論、コペンハーゲンでも不思議に傘を持っていなかったのです。

 雨にあったと言えば、同じアパートに住んでいたイギリス人がロンドンからベルファストへ行く時、スコットランドへ行く私と途中迄一緒にロンドンを発ちました。夜、傘を持たず、勿論ヒッチハイクで冷たい雨と風が吹くの中、彼のウィイスキーを瓶の蓋に入れて飲ましてくれた時は有り難かったのかよく覚えています。
 雨の中でも、傘をささないのは欧米人だけかと思っていましたが、最近は日本でも雨に濡れても当然のように歩いて行く若い人が見受けられます。これは都会に軒(ノキ)が少なく無くなってるかとも感じています。

 シアトルから少し行った、クリスタルマウンテンにスキーに言った時の事。途中、全く雪と言うものが無く、着いた最後の駐車場のみ雪があり、10m程でしたが、チェーンが切れました。スキーの帰りに雪が無くて助かった事ですが、そのレンタ―会社にはかなり文句を言いましたが、答えていなかったです。
 ヘブンリーバレイに行った時は、ここも雪も無いのに良く来たね!と言われました。その答えに、今日から雪が降りますと返事をしましたら、その日から大雪となりました。ただ、アメリカの場合、保険の都合上、直ぐにスキーはできなくて、お蔭で周りの3つのスキー場に行きました。

  同じところに3度目にヘブンリーバレイに行き、サンフランシスコ迄車で行く途中で、ランチを終えて外に出てビックリ、30㎝は積もりました。
 その後、大雪の中で運転、何でもアメリカは桁違いと思いました。若いと何でも怖さ知らず、何でもよくやったと思います。
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466 103歳 を超えて (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-07 04:07:07 | 思い出日記
 103歳越して生きるて、いいことを書いているので、そして何から抜粋したか、それぞれに素晴らしい、面白いと思った時に書いて整理が悪く誰が書いたのか分から無いですが、メモしたものが多くあります。

 若い時は、頭にひらめいたことは何でもできる、やれそうな気がどこかにあります。歳を重ねるだけで、頭にひらめいたけれど、もうできないだろうという否定が生じるのです。歳をとれば、人にはできることと、できない事があると知る事になるのです。
 それは、できなくて悲しいというよりも諦める事を知り、ここまで生きて、これだけのことをした。まあ、いいやと次第に悟る事になりました。

 20才の時に世界一周、何も知らないのに、いえそうでは無く、知らないから良く行けたと思うのでした。今なら行けない、そう思う事が、いつでも気分は20代とはいかない様です。年を取ったなと思います。

 海外持ち出し金が$500(日本を出る時は、$1,200になっていました)、1ドルが360円で全ての持ち金を、外貨にできず残りのお金を歯磨き粉の中(今と違い底が開きました)に隠して入れました。夢のハワイと言う時代、現在でしたらお金さえあれば簡単に行けますけど、今度は金が無いと言う情けない状態です。
 そして、インターネットで情報豊富な状況下で旅行ができるようになりました。まあ、情報が豊富でも私の様に行き当たりバッタリで、役に立たないから同じです。

 今や、米国だけで無く、欧州も治安が悪くなっていますが、最近、死ぬまでに(この言葉、実際書いてみて、死ぬ迄近くなったと気づきました)、もう一度スイス等に行ってみたいと思い始めました。イタリアのフェレンツオーラやバーミュダー島等は再訪してみたいものです。その土地で会った人達が素晴らしい思い出を作ってくれました。

 当時は欧州へ行くのに安いシベリアルートが安く一般的であったと思います。知らない人ばかりがウィーン迄、初めて行ったソ連(現ロシア)は、舗装していない、板塀で囲まれた貧しかったことが印象に残っています。モスクワでは砂糖が珈琲に解けない固いものでした。
 
 我々の行く前、半年か1年前に欧州に行っている人達は労働ビザを取るのが簡単でしたが、デンマークで公的な施設で働く責任者に付いて行ってもらっても簡単では無く、結局就労ビザは取れなかったでした。何でも早い方が、人より苦労も多いけど良い見たいです。

 書くつもりはありませんでしたが、昔話になりました。年取って来ると同じ話が多くなります。山に段々登っていって目線が違ってくるので同じ話とは違い、以前に話たことでも、色々またちがった思い出が出て来るのです。
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461 雨にも負けず (毎週土曜日に更改しています)

2016-04-02 04:11:53 | 思い出日記
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」宮沢賢治。そうあって欲しいですが、現在、理想主義としか言いようが無いです。人が殺し合う戦争をしている国、そこから逃げ出してくる人。戦争を抑止する為に戦力を増強しなくてはいけない国。世界中幸せに何かをしなくては、思っても自分の身の回りも幸せにできないのです。アメリカは建国後30年の間を置かず戦争をしていて、日本は戦後70年、戦争無しです。

 戦争は沢山の人が死にますと言うより殺されるます。毎日人を殺すとのニュースがあり、人の命を軽く見ているとしか思えない。そこで世界中幸福などましてありえない、現在社会においては夢の世界であるとしか思えないです。しかし、どのような状態においても幸福は人類全ての希望と言えます。
 
 宮沢賢治さん、残念ながら、なかなかそう幸福にはならないです。しかし、宮沢さんは死者の幸せ、これから生まれる者の幸せ、みんなの幸福を思って言っているのだと思っています。

 とても不思議なのは何時も当時の人の多く宮沢賢治さんも含み、暗そうな写真を見て、特に「銀河鉄道の夜」等メルヘンチックな本、失礼ながらどう見てを書いた人には見えません。外見とは本人の本質と違うものだと思うのです。
「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」と数々の童話、詩を書いて「雨ニモマケズ」を書いてから約2年後37歳に亡くなりました。若いです、でも約100年前に生まれて亡くなった人の作品が今でも新鮮に思えるのは素晴らしい事です。感受性が凄い人です、外観で判断はいけないとの言葉を忘れずにいなくてはいけないです。

 フィーリングで判断して、つまり第一印象で、どうしても人を見てしまうという私です。それが外れる場合が多くあります。では、人から見て自分の第一印象とはどのようなものか、考えもしなかった事に最近目が覚めました。多くの人は自分の第一印象を考えたことがないかもしれません。何か面接を受ける時は、考えたかも知れないです。私は、その時にどう答えようかと、そればかり考えていました。

 他の人が感じる自分の第一印象、今まで思って考えたことがありません。これが、ダメなのと分かりました。考えると自分では第一印象が良いと勝手に思っていました。思い出すと高校の時、友人の妹に親切に優しく話したつもりで、怖がられたことがありました。その時に改めていたらと思いますが、そんな昔から、やっぱり無理かも...


 
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448 新年おめでとう御座います (毎週土曜日 更改)

2016-01-02 09:03:09 | 思い出日記
 新しい年を迎え、途中から読んだ人に、このブログの少し成り立ちを少し説明させて頂きたいと思います。 

 そもそも退職後の事を何も考えていなかったのでした。お尻に火が点かないと何もしない、この辺が私の駄目な訳、どうにかなるだろうすら考えていない滅茶な人生を送って来た訳です。

 暇なので、学生時代に、ソ連(ロシア)欧州、アメリカと行った所の旅を思い出として纏めようと思い書き始めました。現在の内容と少しと言うより大分違うタイトル、「旅思い出、思い出し」として書き始いたのでした。

 旅の話を書き終えましたが、今とは比べものにならないですが、それでも、かなりの数の友人が読んでくれていました。それで終わるのは今まで読んでくれた人に申し訳なく、それならばと、日常の事や思い付いた事をそのまま続けて来て400話を書いて延べ13万アクセツ、今日に至りました。 
 途中でFB等を通じて、この前は今までの最高で想定外に多く、1週間に1,700もアクセツがあり、それ程友人がいるとは思えないので驚いています。

 一回大体1,500文字を基本として書いていましたが、新聞のコラム数が1,000から1,200文字で読みやすいと言われ現在に至っています。それでも長いと言われました。

 最近は、バイトで行っている介護ホームや高齢者の話が多くなっています。皆さんにはと言うより私にも関係無いと思っていましたが、私はマダマダ大丈夫ですが、年を取って来ると体力、気力がおのずと若い時よりどうしても落ちてきます。
 年齢とは関係無く、若い気持ちを持つ人がいますが、高齢者を見て気づいた事、主に好かれる年寄りになりたくて、現在それを中心に書いています。と言うのも無意識に性格習慣と言うものがでます。恐ろしもので、その無意識が普通になり、自分がどうしてそこにいるか分からなくなって行く人がいます。こんな具合に痴呆症になった時、それを自分で気付かないままです。

 若いから関係無いと思っている人がいるとしたら大間違いです。高齢者になれば今までの習慣が出て来ても痴ほう症のせいで気がつかない事があって、それが今までの生活状態を見せるのです。だから、若い内から、気がしっかりしている時から気をつける必要があるのです。まあ、痴ほう症になれば分からないので自分に関係無しと思う人がいれば別ですが、見っともありません。

 人生何十年も過ぎてくると、習慣、性格は治せないかも知れませんが、頑張りましょう。何に対しても、何時も感謝の気持ちを持って長生きしましょう。  

(1092文字でした)
 
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446 一笑涯 (毎週土曜日 更改)

2015-12-19 05:23:38 | 思い出日記
 ラテンの雰囲気を持って、明るく、しかし彼女は仕事はドンと大きな胸で、任しときなさいとの雰囲気を持ったメキシコで育った日本人でした。そんな人が成田空港で初めて私と仕事をした若い先輩でした。
 お客様に対しての応対は抜群で、私にすれば見習うべき丁寧過ぎるとも言える日本語で、つまりメキシコでの日本語教育、彼女の家庭での生活の良さが出ていたに違いありませんでした。
 
 大阪で営業一筋であった私が、初めて配置されたのは手荷物課でした。ここに来るまで手荷物係とは簡単な仕事と思っていました。海外から疲れて帰って来た人の手荷物が無事にお客様に手渡しできるか確認して無事に渡って終わりと思っていました。しかし成田で旅行を終える人ばかりででばかりでは無く、多くの人が第3国の国際線に、勿論国内線にも乗り継ぎ、そしてロストバッグもあり大変でした。そこで、どうにか無事に過ごせたのは、彼女達のお陰です。
 10時間以上の国際線なのに10分遅れで次の便が厳しくなる人がいるのに、30分、それ以上になれば代替え便まで用意しなければいけないのに、営業にいた私は、そんな事は考えた事が無かったです。

 月曜日14日に「こんにちわ、Kさんの件は聞いていますか?」メールを受けた時、彼女の結婚話と思い、軽く「聞いていません」。それから返事が無くて何か悪い予感がして、返事を催促しました。
 思いもよらない知らせが来ました。聞いた事の無い病気「平滑筋肉腫」が転移して手術ができなくて、彼女は11月11日に亡くなったと言うものでした。

 人間ドックにも行き、健康優良児と思える身体、大笑いして「私が死んだ!冗談、冗談、冗談きついですよ」と言うはずです。そう言って欲しいです。未だに信じていません。これを書いていて堪らず涙が出てきます。酒々井で二人してコーヒーを飲みながら話をした事を忘れられないです。私と違い、老後の家も二軒の買っていました。
フェスブックで友達なのに、今日確認すると断りも無く名前だけあって「このアカウントは停止されています」。本人が辛い闘病生活の間に消したと思います。それにしても若すぎます。ここで合掌で終るには未だ気持ちの整理ができていません。人間いつかは死ぬと理解しているつもりですが、死とはまだ良く分かっていないのです。

  大阪に帰る時に成田空港のスタッフ個々に写真を撮ってもらいました。二ショット、彼女が面白い変顔の写真、それを毎日見られるようにリビングに飾ってあります。みんながコメントを書いてくれたのですが、改めてMs.Kのを読むと「もっと早く北清水さんにダイエット方法を学んでおけばよかった....長生きするためにもやせます。元気で元気で元気で KK」
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437 車内の居眠り (毎土曜日 更新)

2015-10-17 04:57:26 | 思い出日記
 ラジオで女優の岸恵子さんが、日本人は人前でズボンを上げる、パリではそんな人は見たことが無いと言っていました。本人さえ忘れていると思う古い話ですが、私にはその事が頭に残っています。昔もそんなにいなかったと思いますが、巴里帰り、当時そんな人が多くいたと感じたのでしょう。

 気にならなかったと思いますが、テレビで紳助さんがズボンを上げる度にその話を思い出しました。今頃、何をしているのやら、テレビを辞めたその時は、注目を浴びていたのにテレビは人気者を作り上げ、人気をあおりたて、そして次から次に人気者を変えていきます。
 
 余談ばかりですが、極楽とんぼの山本圭一、成田にいる時に、酒に酔って一番遅れて乗ると言う姿を見ての印象を鮮明に覚えています。けしからん奴だと思っていましたが、数々の芸人に後押しされて復帰するかと言われているのが良く分からないです。

 文化人類学者が「世界が認めたニッポンの居眠り」で電車内で無防備にウトウトしている日本人が多いのを不思議と思って調べています。歴史的、文化的に考察して睡眠が少ないことや、治安が良い事もあるが「居眠りを2分間すれば、2時間の仕事ができる体調が整う」「ストレスが減る」「ひらめきが起きる」と好意的です。

 私が良く利用するのは、宝塚線の豊中駅からです。この前見た光景ですが、外国の女性が電車でウトウト寝入っていたのは、安心する程、治安が良い日本に住んでいる証明であるとも言えます。最近は、治安が凄く悪く心配ですが、日本で生まれたか、日本に長くいるとこうなるのかと思います。

 以前に行った事がありますが、治安と言えば思い出すのが治安の良いリゾートのカンクーンでの話、路線バスに降り口でカメラをさげて直ぐに観光客だと分かる格好で立っていました。その前に座った人が、私のズボン膝上の前のポケットの財布を取り出して自分の靴で財布を踏んで隠し盗ろうとした事がありました。先ず、皆さんが旅先それも外国の路線バスに乗る機会は少ないと思いますが、海外に出るとみんな泥棒と思わなければ危険です。日本もそうなって来ました。

 思い出しついでに、何も知らない学生時代に簡単な地図を持って、ロサンゼルスの夜バッグを持って少しの距離と思ってだだぴろい広い通り歩いていて、いつまでも目的地にたどりつかず、怖くなって安ホテルに飛び込んだ事があったのでした。そのホテルも怖かった。

 後で考えれば、クルマ社会のアメリカで何処でも歩けると思った自分が哀れを通り越して馬鹿と思わざるを得ないです。その時でも危ない、今なら確実に危険、良く無事であったと思います。
 
 
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433 人を信じる (毎土曜日 更新)

2015-09-19 06:59:30 | 思い出日記
 1度会ったら知り合い、馴れ馴れしい。2度会うと友達、3度会うともう親しい友人と、勘違いをして生きてきました。人を見る目を持たない私が、一度で会ってその人の良し悪しを決めるから嫌いになるとズ~とそのままでした。初対面の印象だけで、自分と合わない人と思い、今までどれだけの人に嫌がられたかと思います。そして当然、親しい友人に沢山裏切られました。

 3度会っただけなのに私にとっては親しい友には、胸襟をさらけ出して言ってしまって、何と馬鹿な自分であったか。反対に他人の事を言っているのに、そうで無いと分かりましたが、その時は別れの間際だったという間抜けた事もありました。 

 こんな事を思うのも、いつも飲みに連れて行って頂いた旅行社に勤めておられた、人生の大先輩の事を思い出したからです。大阪に帰る前に、その方が亡くなったと聞き、そのお宅に訪れたのが6年以上前の今頃でした、いつも彼の馴染みの店で、かなり酔っていて何時もの如くそのお店に行きました。
 しかし、そこのママさんがどうにも気が合わなくて何時も嫌な目にあわしていました。大阪に帰るとお悔みに行きましたが、申し訳無く残念な事です。
 その方が、生きていたら私の人生も変わっていたかも知れないです。コンピューターに詳しい方で、それと新地のクラブに詳しくて私が営業して昼間、お店でPCをその人が教えるつもりでしたが、夢のまた夢になってしまいました。

 これも今まで苦労無しでやって来た為だと感じています。気づくのが遅い人生ですが、生きている間に気付き良かったと思っています。直すことが多い人生です。

 最近 言ってもニュースが余りも多いのですが、神戸の病院で自分の肝臓の1部を切り取って、その主人が手術をして術後間もなく亡くなったとの事です。それを考えると涙ぐましい夫婦愛を感じます。そこしか手術してもらえる医院が無いほど切羽詰まった状態で、今まで沢山の人が術後直ぐに亡くなった病院に頼っていかざるを得なかったと思っています。でなければ、自分の臓器を切り裂いて提供する訳がありません。10に1つのチャンスでも賭けた人に敬意を払いたいと思います。

 勿論、医者の技術が足りなかったかと思いますが、その方の必死な気持ちが良く分かります。介護施設を現代の姥捨て山と勘違いしている方に少しでも分かって貰えたらと思いますが、無理でしょうね。

 今まで、他人を見る目が如何に欠如していたか、それが重要かと感じています。人生、多くのいい方と接して、その幾分かでも人の為に残りの人生に生かして行こうと思っています。
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429 夢を忘れずに...(毎土曜日 更新)

2015-08-22 06:00:52 | 思い出日記
 今年も台風で沢山の人たちが亡くなっています。風が吹き始めてから窓に板を打っている時に、風に吹かれて窓から落ちて亡くなった人、雨がきつく降り、水路が水で溢れてその異常を確認して水に流された等は毎年聞く話です。どれも、高齢者でした。

 雪国の親戚の家に行った時に、毎年一銭の金が手に入る訳でないのに雪かきに毎日せいを出さなくてはならないと、年寄りの人がなげいていました。 
 若い人がいないので自分たちがやらなくてはいけない、世の中は高齢化して益々その被害者が多くなると思われます。その人達が仕事をするのに、昔だったら、簡単に早く終っていたのに、去年より今年、段々と遅くなってると思います。

 それならモット早くに片付けたら良いのに、しかし、窓打ちをやって台風が来なかったら、又、やり直し、当然避けます。そこで昭和の家を守る為に、昭和を生き抜いた人たちが、簡単に亡くなってしまうと言う事が毎年のように起こっています。明るい内に非難を!でも何とかならないものでしょうか、考えさせられます。

 ところで、私は宝くじに当たる事に賭けています。当選日を過ぎても、机の前に何時も宝くじを置いて、寝られない時は、その当たったお金をどう使うかと考えると直ぐに寝られます。

 今でも若いつもりですが、万年青年??の私も写真に写ると年が分かるのが情けなく感じ始めました。鏡で毎日見ているけど、いい男?と納得してますが、この頃の写真機はできが悪いのか自分らしく写っていないのです。どうもデジカメが合わなくなって来ました。今でも20代のつもりですが、デジカメは私をそう若くは写してれなくなりました。

 新装オープンのチラシにカップに入ったロウソクの写真が写っていました。そこで思い出した事ですが、欧州にいた時、ロウソクの専門のお店を京都の四条通りに持つことが夢であった事です。そんな時もあったのでした。

古くていつ頃か不確かですが、本当に若い45年程前に、コペンハーゲンで家に何か問題があって貧乏とかで親と一緒に住めない子等がいる施設でボランティアとして働いていました。

 その時に、可愛いというより凄く艶めかしい14才位の女の子の部屋で、ロウソク、網、そしてビールの木箱等を上手く飾り付けていました。それを見てロウソク専門店を夢見たのでした。色んな若者がいましたが、その娘は、近親相姦で親と一緒に住めないと言う事でした。

 その店の名前まで決めていたのに...今となっては夢、チラシを見るまで、そんな夢を忘れていたとは、どうしようもないです。皆さんは、若い時の夢を忘れずにいて下さい。
 
 
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428 30年前

2015-08-15 05:35:05 | 思い出日記
 日航機墜落事故があってから30年がたちました。10年1昔前、30年前、長いようで、昨日の事のようです。大惨事と言って一言で終わっていいとは思いません。524人が落ちるまでどんなに恐怖に陥ったのか、その後、未だに何も言わない川上慶子さん、怖かった、彼女ら以外には怖さは分からないです。ジェットコースターと比べ物にならないのは分かりますが、なんでも普通経験しないと分からないと言いますが、生き残った人以外に誰も経験しない恐怖です。
 
 乱気流に巻き込まれて、一挙に数千メートルの急降下を経験した人、生きた心地がしなかっと言う事を聞きます。それより長い時間、長い距離を経験した後に亡くなった人達。想像するより、でも、それは想像できないです。

 CPカナディアンパシフィック航空会社に努めていた新田さんも、その中にいました。彼女は、我々航空業界に努めていた人間が殆ど混んでいるので避ける、ピーク時の8月12日に乗ってその事故に合われました。

 多分、微かなチャンスに賭けて、チェクインカウンターか搭乗口で自分の名前を呼ばれた時は、嬉しかったと思います。航空会社に努めていると、スタンバイと言うか、ノンレブと言いますが、取り消し待ちのチケットで乗るのが普通です。それか山陰地方で、彼女の家は有名と聞いたので、普通の航空券を買われたかも知れません。そして、どうしても大阪に帰る理由があったのかも知れないです。彼女が乗らなければ昨日の事故のように感じなかったかも知れないです。
 
 この飛行機に乗った人、その一人一人にそれぞれ人生がありました、その殆どの人が、それぞれが夢に満ち溢れた時を持って搭乗したと思います。その地縁者だけでもかなりな数が想像できます。又、その中で最後の手紙を書けた人には、何としても家族に伝えたいということで、精神的な強さを考えさせられます。

 書道家の村尾さんが「鎮魂の個展」を模様されました。大阪箕面の人で東京で開かれた書道展の表彰式の帰り、その日に早く羽田に着いて予約していた123便より早く121便の空きに乗って、難を逃れたそうです。搭乗しようとした時に、4人家族の中に、水槽を持った子供がこのままでは機内持ち込みができないと、入れ替わるようになったとそうです。犠牲者の中に4人家族がいたことを知ったそうです。 

 毎年のように墜落現場の御巣鷹山へ慰霊登山に行くそうですが、遺族とすれ違っても言葉を交わす事が出来ない。偶然生きながらえた自分の立場を言い出しにくく、接点が持て無かったそうです。
 
 事故にあった人々、その人々にかかわった人、みんなに何と言っていいか分からないです。合掌
 

 
 
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423 11万のアクセスを振り返り

2015-07-11 04:56:41 | 思い出日記
 ブログサイト、有難い事に、昨日、1週間分、そして今までの総アクセス数も知る事ができます。その数、今日明日には11万アクセス、嘘っぽいので数字を細かく言うと、109,904なっています。
末尾迄細かく言うと本当らしいと詐欺師、これは失礼、これに近い友人に言われた事を思い出しました。でも、実際本当の数字です。ここまで来たのは読んで下さる方、皆さんがいてと感謝しています。偶々、選んだサイトが素晴らしく私に合っていました。

 そして、2度繰り返す間違いを少なくしてくれるのが、1年前ブログに書いたブログをメールで送って来るというサービスを知りました。 偉いもので1年前ついこの前の事?、見事に忘れていました。我ながらいいことを言っていると思っても、言った事を忘れては仕方ないです。

1年前に「ボケる人ボケない人」を題材に、そんな話もしたなと思ったなのが、ADHDです。このブログを400話以上続けていると以前に話した事を繰り返すようになるかも知れないです。その誤りをしていないと自信がありません。その節は、前回の話をより詳しく書いているとお許し下さい。

  358話で言った話ですが、ADHDとは「人の話をしっかり聞かず、忘れっぽくて、計画的に物事を進めれない。注意力を持続できない、気が散りやすい、物をよくなくすなど、落ち着きが無くしゃべる、思いたったら後先考えずに行動する。私の事を言っているのではありません。この症状は、主に小児の症状と考えらるADHDは注意欠陥多動性障害というのだそ...」今また、新聞記事になっていました。

 気づか無いのはどうかしていますが、私は正真正銘のADHDでした。この症状は、主に小児の症状と考えらるADHDは注意欠陥多動性障害というのだそうです。薬もあるという事で、大人になって急に発症することはないのですという事です。子供の時は、薬が無かったのでしょう。納得。しかし最近特に物を良くなくします。朝からもの探しが始まります。そのような事で一日が始まります。

 考えてみると、最近では無くてズ~と以前からでした。小学生の時にお年玉を無くして泣きべそを、その時に母は又くれた事を思い出しました。これは生まれついてのもので、今までの無くした額は人に言えない程になっているかも知れないです。
 兄はそのような私を心配してくれますが、心配していると癌の心配があると、私が兄の事を心配しているありさまです。

 考えても仕方の無い事を心配するより、明日を考えて行かなくては...11万もありがとうございました。
  
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422 遠い昔

2015-07-04 03:56:02 | 思い出日記
 コペンハーゲンは心の故郷。ロンドンは映画演劇ファンの私にとって忘れられない所です。一度ロンドンに1泊してレスタースクウェアの周りにある映画館を梯子した事がありました。それが自慢です。

 書いたことが多くなりますが、ロンドンの劇場で日本人が切符を買う際に通貨を30ペンスと言うところを、ちょっとの違いが大きく間違って30ペニスと言っていました。イタリア人の友達と行きましたが、そこでやっていた演劇が超飛んでいると「オオカルカッタ」。その日本人は演劇内容を知っていたのかも知れないです(^^♪

 出張でロンドンへ行く機会がありました。東京からダラス、ロンドン、そして夕刻便の東京行きにのれば、機中泊だけで仕事が可能と分かりました、若さに任せそれも可能かと思えましたが、無論、そんな馬鹿なことはしませんでした。念のために付け加えてきます。
 
 初めて12月のニューヨークのウオール街を歩いた時、台風のような風の強さに驚かされました。摩天楼の間を身体全体を斜めにしても倒れない風でした。それと街で売っているピッザの大きさに驚かされました。何にでも驚く若さがありました。

 社会人になってから、研修でシンガポール人と東京の人とNYCに行った時、JFK空港から市内へバスから降りた時、親切にも道案内をしてくれて、付いて行って法外なチップを要求された事もありました。
 それ以来、ニューヨークに着くとタクシーを利用することにしました。乗るといつもどのルートを使うのか聞いてきますが、毎回どのルートが1番いいのか分からない為、情けなりですが、とりあえず2番目にドライバー言ったルートに決めていました。今は事故で飛んでいないと思う、JFKからLGA迄のヘリコプターは忘れられないです。

 忘れられないのが、私を名誉市民にしてくれたニューオーリンズ。今、どうして行ったか毎日フェリーに乗って町まで行ったのですが、何処から乗ったか等何も覚えていないです。忘れてしまったことが殆どです。

 コペンハーゲンとロンドン、それとニューヨーク、ニューオリンズ、東京と何処か京都と違うのでした。それら全ての都市、良く考えてみると山が見えないです。

 川端康成は、今のうちに京都を描いて欲しいと東山魁夷に頼んだ時は、昭和30-40年代でした。京の街を歩きながら、山が見えない、山が見えないとつぶやきつづけて悲しんでいたものだったそうです。その気持ちが良く分かります。

 京都が好きな理由の一つに、何処の通りにいても山が見えた事です。生まれ育ったところはいい、京都は我が故郷です。

 「ふるさと」淋しいですが、言い換えれば、もう住むことをあきらめた所、全てが、夢の話となりました。
 
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421 ジャネーの法則 

2015-06-27 05:05:31 | 思い出日記
 フランスの哲学者ポール ジャネーの理論として年令とともに逆比例して時間が短くなると言っています。この法則が「ジャネーの法則」です。つまり、時間を10才の子供に比べて50歳の人は5分の1短く感じるといっています。私もその感覚が大変良く分かる年になってきました。

 以前、デラックス マツコさんが、テレビで言った事を紹介して、同じ1年を5才の子は5分の1、そして40才は40分の1程度に感じると言っていた方が分かり易く、同じ事を言っているのです。流石に流行りのタレントが言うと分かりやすいです。 勝手ながら、それ以来マツコファンです。先日テレビで見ると、益々太ってきましたが、身体が心配です。
 分かっています、他人の心配より自分の事を気をつけます。昔、大阪にいた時より、ダイエットして14キロ減です。でもご心配無く(誰も心配していない!(^^)!)、学生時代とほぼ同じです。

 時間は過ぎるのが早いですが、ケガをすると若い時と比べて回復が遅くなっています。大腿骨等を折ると麻酔と人口骨折、しばらく入院しなくてはいけないです。この長さが、老人でしたら殆どがボケ始めるというのです。 
 多分、日常会話が殆ど無い、出来ない。たまに来る看護師さんとの会話が全てとなっています。だから、入院するとボケるから早く退院した方が良いといいます。まず、医者に診てもらい鎖骨を折った程度なら、自分で治す事を第一に考える、鎖骨は重さを支えない、その他の骨は重さを支えるからくっつくまで安静にしないと治癒しない。鎖骨だけは動かしていても安静にしているのと同じで問題無いと100歳迄生きる人は実践していました。入院を避け、できうる限り骨に関して医者を離れ、自分で直す方が良さそうです。誰でも年をとって来ると骨を折りやすくなってきますから、よう注意が必要です。

 介護施設、良い施設です。キッチリ薬も朝昼晩と飲んでいますが、ただ、どうしても会話が年寄り同士の会話となります。それでもいい方で、部屋で寝ているの方が多くなっています。
 毎日同じ話、会話をする、それと違う世代の人と話す機会が殆どありません。家族の人が会いに行くべきですが、部屋に行き、1時間と言わず10分もいれば話も無くなって来ます。できれば、ズ~と家族と一緒にいた方が良いと思う様になりました。
 それが出来ないからとお叱りを受けますが、現場を見ていませんが、デイサービスも、自分から何かをするという意欲が生まれて来ないと思うのです。でも、やった方がいいと思います。人によりますが、自分で何でもできる人は近親者の近くにいて、1人住まいができる人はそれを薦めます。

 福祉国家であるスウェーデンでも老齢者の自殺が多いと聞きます、難しい処があります。でも、もう他人ごとではありません。

 
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420 日本の字

2015-06-20 04:56:30 | 思い出日記
 介護のバイトをして思わぬ所に日本語というより日本の字の良さを発見しました。日曜日には80名程の血圧と体温を目線を相手に合し、スクワット訓練と思い測定しています。食事を給仕する時に、日曜だけ数がフロアが違い30名程、その人達の顔も覚えていないのです。

 ゲストが食事を終えたら食器を片付け、どれだけ食べて飲んだかを主食・副食書そして飲物と分けて一人づつ書く必要があります。リストの中からその方の名を、30名数名の中に一人の名を早く探すのは大変です。その時に漢字、平仮名、片仮名が書いてあると非常に見つけやすいのです。少し大げさですが、新しい発見です。

映画字幕を書いている戸田奈津子さんが言っています、「乱暴な言い方をすれば、字幕で映画を見るのは日本だけだと。お客さんが字幕を好んだのですね。理由はいろいろありますが、日本人は勤勉だから外国のことを正しく知ろうとする。本物を好むのです。日本人はトム・クルーズの肉声を聞きたいけど、海外の人はトムの声に興味はないから吹き替えの方を取る。(字幕に追われて、本当は聞いていないかも?)あのひどい戦争を体験し、娯楽が何もない中で日本国民全員が映画ファンだったのよ。今じゃ考えられないでしょう。(本当にそう思う)
 何よりも日本は識字率が高かった。ここはあえて過去形で言いますね。それに日本語は字幕的な言語なんです。漢字は一字みれば意味をパッとつかめるでしょ。視覚的には漢字が文章を引き締め、ひらがなは柔らかい。あのバランスが大画面で見たときにとても美しい。残念ながらその素晴らしい文化が崩れつつあります。
 映画字幕の翻訳と通常の翻訳は別ものなんです。字幕が字数に縛られていることを知らない人から「誤訳」などと批判を受けることもありますが、気にしません。もちろん間違った訳や下手な意訳はいけない。理想的な字幕は、観客に字を読んだという意識が何も残らない字幕なんです。画面の人が日本語をしゃべっていたと錯覚を起こすくらい「透明な字幕」が一番いいんです。」

 映画を英語で聞こうとするのですが、戸田奈津子さんの字幕であると安心していられるのです。そして母が映画好きということもあり、小学校のころから映画館でよく映画をみるようになった事を今、感謝しています。
 
 映画「真夜中のゆりかご」はスウェーデン語でした。主人公の刑事が自分の子供が死に、ドラッグに溺れた夫婦の子と彼の子の死体と取り換える話でした。最期にホットする場面がなかったら本当にしんどい映画でした。滅多にない言葉でも翻訳家はいるのです。

 忘れもしない1988年人気絶頂期のエディ・マーフィーの「星の王子ニューヨークへ行く」は、字幕が本編を面白く無くした映画です。字幕に支えられる映画もあるのだと気づきました。

  でも、映画って本当にいいですね。
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419 先ず100歳迄

2015-06-13 04:36:41 | 思い出日記
 スキーヤーの三浦雄一郎が滋賀の函館山に名前だけ覚えているエアーターンをデモンストレーションに来た時に、高校生の時に初めて見ました。まだスキーの初心者の私にとっては急な斜面も、あの低い山へよく来たなとズ~と思っています。

 その雄一郎のお父さんは全く知りませんでしたが、息子が70歳でエベレスト登頂に成功した時、そのトレーニング方法、足首に1キロのおもりをつけて歩くことをやった人だったのです。

 スキーを続けてきて、還暦を過ぎてから海外での滑降を始め、70歳の時にヒマラヤ、77歳でキリマンジャロを滑降する。88歳の時には、アルプス・オートルートの完全縦走を果たす。2004年2月には99歳でモンブラン山系のヴァレブランシュ氷河からのスキー滑降を成し遂げ、同年9月にはスポーツ振興への貢献により内閣総理大臣表彰を受けた。100歳では、アメリカのスノーバードで、親子孫曾孫の4世代での滑降を行い、話題を呼んだとは恥ずかしながら全く知らなかったです。

 その三浦敬三さん100歳と日野原重明さん(聖路加病院元医院長)93歳が一生元気を実現する生き方の処方を書いた(100歳「元気生活」のススメ)という本に、

 「そんな事は今までやっていないからできないではなく、やっていないからやろう」その考えの中で、
 (1)「何か愛する事によって生き生きすること」
 (2)クリエイティブに何かを生産することで生きがいを持つ
 (3)逆境やストレスを受けても、それに耐えることによって成長すれば人の痛みや不幸が分かる様になる   耐え ることによって、人をいたわる、愛するという能力が養われ技術が磨かれていくのです。

 人と接してその人が低姿勢で無理を承知で聞く態度、とりあえず無理を押し通す人等、遅くは無い、そんなことも考えていなかった自分を改めなくてはいけないと思います。

 定年後、急にやることが無くなり色艶を失って「濡れ落ち葉」になってしまわないように、75歳からでもまだ使っていない遺伝子を使い始めれば、自分では気がつかなかった能力が開化するはずです。父親から1万6千、母親から1万6千、計3万2千の遺伝子が内在しているといいます。その遺伝子を使わずに死ぬことは両親に申し訳ないと思います。 

 新老人の75歳までは その準備期間と考え、今から「人生のモデルを見つけ」、先ず、足の衰えは外出嫌いになるから、今まで以上に歩くこと重点的にしていこうと思っています。
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