突然ビルマですが、大阪ピースを見学して、スー チーさんも勝利に、これは書かなくてはと思いました。40年近く前、まだミヤンマーがビルマと呼ばれていた頃に合計3度もビルマに行ってます。ビルマが鎖国を止めて何年かたっていたと思います。
ビルマ航空のチケットも買え無い状態でしたので、シンガポールの旅行社に頼んで切符を空港内で受け取ると言う事で、先ず最初からビクビクで心配でした。
飛行機に乗ってビックリ、サービスは何度も使い、色が茶色に変わっているプラスチックのコーヒーカップで出てきました。その当時は煙草を機内で吸えたのですが、そこで隣の人がマッチと言うと、使いふるしたかなり大き目のマッチがでてきました。何もかもが珍しいものでした。
一度はどこの空港か忘れましたが、50人程のプロペラ飛行機で、中には戦闘で負傷した兵士は乗っていて、何と草原の滑走路に降りました。草原に降りたのは後先初めてでしたが、着陸した時は気持ち良くクッションの上に降りた様でした。
京都の128戦友会のメンバーとご一緒させてもらい、グループとして移動しました。最終的にラングーン、マンダレー、パガンと色々回りました。初めて行った時の事ですが、顔に白い刷毛で書いたようなものが殆どの人に付いていました。てっきり皮膚病かと思っていました。寺院で裸足にならなくてはいけなくて、病気がうつったらどうしようかと本当に怖かったでした。後で日焼け止めの為だと分かりましたが、町の家々は、ガラス窓は無くて総て鉄柵で凄い所に来たなと思いました。男女総てに服装はロンジン(腰巻の様なもの)を着用でしていました。ラングーンのホテルはインヤレイクホテルでそこだけ立派でしたが、首都を離れると壁にイモリがいるホテルでした。
現地での日本人受けは本当に良かったです。長年のイギリス植民地を解放してくれた日本が、統治期間も短くて好意を持ってくれたと思いました。日本軍が連合国に敗れて逃げて行く時でも、軒先に食料品を置いてくれたそうで、暫く立つまで、日本軍に対する反感が怖かったですが、その時もどの人も優しくしてくれたと聞きました。私の父親の年位の128戦友会の人達と気安く付き合ってもらいました。
別の時、二人の女性が一緒で、田舎に行くとトイレがありませんので、草原の草を積んだ広い所迄行って大地の真ん中で用をたした事がありました。違う時に、おばあさんの名は確か木村(はな)さんと思いますが、82歳のおばあさんが一緒になりました。
印象深い人でした。その頃こんな物があったのと思われる大日本帝国のパスポートを見せてもらったのでした。お医者さんとして現地に住んで、マラリアの患者を沢山診られたといたと言う事でした。マラリアの患者を診るのに、なんと蚊帳の中に患者を一人一人診察していたと言う話でした。自分でも日本人で一番マラリア患者を診たと言っていました。
現地では露店で売っている食べ物を、買い食いするなど私には衛生上、信じられなかったでした。歴史にのらないこの様な人がいたのでした。
その後、その方達の誘いで先斗町で芸者遊びと言うものも味わいました。銀閣寺の‘のんき’と言う高級なお店のご主人に可愛がってもらいまして、何度かお帳場でお酒を飲むという事とか若い時は色々経験しました。そのご主人が、兵隊ヤクザの様な方で規則に逆らう面白い話を色々聞けました。特に馬に投網を乗せて移動したと言う事も武勇伝として印象に残りました。中尉だった人がいて、その方が随分怖かったのでしょうと聞きました。弾は前からばかり飛ぶとは限っていないと戦争中は将校は、おちおち出来なかったそうでした。
戦争の悲惨さも私の年代でしたら、良く聞いた方です。ヒルが身体に何匹も付いた時は、取れないからタバコの火で取ったとか、戦車が通った時は手足が飛んで行ったとかと言う事も聞きました。残念な事に、その方達も殆どが、鬼籍に入ってしまいました。
色々経験しているので自分でビックリします。
ビルマ航空のチケットも買え無い状態でしたので、シンガポールの旅行社に頼んで切符を空港内で受け取ると言う事で、先ず最初からビクビクで心配でした。
飛行機に乗ってビックリ、サービスは何度も使い、色が茶色に変わっているプラスチックのコーヒーカップで出てきました。その当時は煙草を機内で吸えたのですが、そこで隣の人がマッチと言うと、使いふるしたかなり大き目のマッチがでてきました。何もかもが珍しいものでした。
一度はどこの空港か忘れましたが、50人程のプロペラ飛行機で、中には戦闘で負傷した兵士は乗っていて、何と草原の滑走路に降りました。草原に降りたのは後先初めてでしたが、着陸した時は気持ち良くクッションの上に降りた様でした。
京都の128戦友会のメンバーとご一緒させてもらい、グループとして移動しました。最終的にラングーン、マンダレー、パガンと色々回りました。初めて行った時の事ですが、顔に白い刷毛で書いたようなものが殆どの人に付いていました。てっきり皮膚病かと思っていました。寺院で裸足にならなくてはいけなくて、病気がうつったらどうしようかと本当に怖かったでした。後で日焼け止めの為だと分かりましたが、町の家々は、ガラス窓は無くて総て鉄柵で凄い所に来たなと思いました。男女総てに服装はロンジン(腰巻の様なもの)を着用でしていました。ラングーンのホテルはインヤレイクホテルでそこだけ立派でしたが、首都を離れると壁にイモリがいるホテルでした。
現地での日本人受けは本当に良かったです。長年のイギリス植民地を解放してくれた日本が、統治期間も短くて好意を持ってくれたと思いました。日本軍が連合国に敗れて逃げて行く時でも、軒先に食料品を置いてくれたそうで、暫く立つまで、日本軍に対する反感が怖かったですが、その時もどの人も優しくしてくれたと聞きました。私の父親の年位の128戦友会の人達と気安く付き合ってもらいました。
別の時、二人の女性が一緒で、田舎に行くとトイレがありませんので、草原の草を積んだ広い所迄行って大地の真ん中で用をたした事がありました。違う時に、おばあさんの名は確か木村(はな)さんと思いますが、82歳のおばあさんが一緒になりました。
印象深い人でした。その頃こんな物があったのと思われる大日本帝国のパスポートを見せてもらったのでした。お医者さんとして現地に住んで、マラリアの患者を沢山診られたといたと言う事でした。マラリアの患者を診るのに、なんと蚊帳の中に患者を一人一人診察していたと言う話でした。自分でも日本人で一番マラリア患者を診たと言っていました。
現地では露店で売っている食べ物を、買い食いするなど私には衛生上、信じられなかったでした。歴史にのらないこの様な人がいたのでした。
その後、その方達の誘いで先斗町で芸者遊びと言うものも味わいました。銀閣寺の‘のんき’と言う高級なお店のご主人に可愛がってもらいまして、何度かお帳場でお酒を飲むという事とか若い時は色々経験しました。そのご主人が、兵隊ヤクザの様な方で規則に逆らう面白い話を色々聞けました。特に馬に投網を乗せて移動したと言う事も武勇伝として印象に残りました。中尉だった人がいて、その方が随分怖かったのでしょうと聞きました。弾は前からばかり飛ぶとは限っていないと戦争中は将校は、おちおち出来なかったそうでした。
戦争の悲惨さも私の年代でしたら、良く聞いた方です。ヒルが身体に何匹も付いた時は、取れないからタバコの火で取ったとか、戦車が通った時は手足が飛んで行ったとかと言う事も聞きました。残念な事に、その方達も殆どが、鬼籍に入ってしまいました。
色々経験しているので自分でビックリします。