旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

272 知れば知るほど京都

2012-10-20 06:53:12 | 思い出日記
 紅葉前の京都へお墓参り、いつもと反対廻りで歩いて四条河原町から清水さんを目指しました。南座の裏側になる宮川町に先ず行きました。

 学生時代に江戸時代女絵巻物と言う時代祭の旗持ちのバイトとして出た事があり、宮川町の芸者さんの前で長い旗を持って歩きました。テレビの実況中継の1年前、普通は時代祭の開催協会とかに雇われるのですが、何故か宮川町に雇われ、東京の青山学院生と2人で交代で1つの縦に長い旗を持ったのでした。

 時代祭と言うと雅やかな装いで豪華と言う雰囲気ですが、私は自分の茶色のジーパンを履いていました。現場では特に中間役の人は大変で、頑丈で重い木箱を肩にかついで歩くのでした。私は雪駄を履いて皆に合わして何キロも歩いて、くたびれた事は忘れられないです。それでも日当1,450円で昼食付きで特別待遇は良かったでしたが、中間役はずっと悪かったと記憶してます。
 宮川町の当時は前近代的な遊郭の風景を残しているアパートがあったり、レトロを感じさせていたのでした。現在は、その時の事が分らない程、良く整備されていました。

 そして建仁寺に初めて入りましたが、その広さに都会を忘れさせられました。こんな所が花見小路から横に入った所にあったとは知りませんでした。六道珍皇子寺、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界と死後六つのどれかに逝く境目がここだと説明がありました。‘お迎え鐘’説明が難しいですが、鐘が見え無くなっていて、建物から縄だけ出て、そこを引っ張ると鐘が鳴る様にしてました。

 東大路に出て、30年以上前に会社のアメリカ人のVPに大阪に来ると良く連れて行ってもらった、ASIAと言うステーキハウスを見よう(食べようと考え無いのが現在です)と思いました。少し入って路地を右に廻ると奥に思ったより小さな店が見えました。その当時1万5千円以上でステーキが出されていたのですが、今幾らになっているのか?
 思い出すのがウオッカマッテニィのvery dryとオーダーしていたVPです。陽があるうちに見るのは初めてで、夜来たのと雰囲気が変わっていました。

 寅(渥美清)さんが京都にプリンスホテルに勤めている母親(ミヤコ蝶々)訪ねて行って、それがラブホテルだと分る場面がテレビドラマのシリーズであったのでした。あのプリンスホテルが直ぐ近所にあって、余り良い雰囲気でなかったのですが、今はホテル跡はマンションになって、路地の入口角は外国の人が多分回りの雰囲気に合わして多分飲食店を造っている所でした。

 話は外れて、昔ヒルトンホテルが大阪にあって(今もあります)、その名もローマ字でHILTONではなく‘HIRUTON HOTEL'となっていたのを思い出しました。様々な事を思い出します。

 そして、以前車で通ったはずですが、全く覚えていない茶碗坂(清水新道)でした。清水道のほぼ道幅が倍近くあり、そこを珍しくスタイル抜群、本物より綺麗な舞子さんが2人歩いていました。そこやあそこに茶碗屋さんが、体力が無くなったのか、その急な坂にお墓につく頃はもうヘトヘトでした。

コメント
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