小さい時の事を考えて、自分の周りにお年寄りがいなかった様に思います。そんなはずは無いと思うのですが、同年輩の人が本に子供の時、同じ様に年寄りは見なかったと小説に書いています。
ひょっとして昭和30年前後は、お年寄りの人が少なかったのではないかと思います。自分のお婆さんでも、遊びに行ったのは覚えていますが、周りにお年寄り、それどころか他の人がいたとは覚えていません。そのお婆さんにしても、自分の思っている年齢よりもっと若いのではとないかなと思っています。と言う訳で、今考えても、老人を余り思い出す事がありません。
今の子供は、高齢化社会の現在において、そこら中、周りに年寄りばかりいて大きくなると思います。大体呼び方は、そもそも、幼稚園児にすれば、お姉ちゃんやお兄ちゃんとは、自分より年上の人、小学生、中学生であるに違いないです。そうすると、高校生や大学生も辛うじてそう呼ばれ、それ以上の人は、残念ながら、オバサンやオジサンと呼ばれる年が幅広くても不思議ではありません。お爺さん、お婆さんと呼ばれるのは親がそう呼ばすか、見た目に違いないです。で、私はと言うと、オジサンと呼んでくれると思います。
しかし、私もオジイチャンと呼ばれるのが当然となる年になって来ました。これを言いたくて遠回しになり申し訳無いです。友人で、50才の時に実際におじいちゃんになった人がいますから、これも分かります。しかし、これ程呼び方で自分の年を知らされるとは考えませんでした。
以前近くに住んでいた若夫婦で、現在でも信じられない話ですが、18歳の時に自宅で子供を産み救急車も呼ばずに、疲れて朝まで寝こんで胎盤をゴミと一緒に捨てた人がいます。私など真似が出来ません。
その人の子が、親と同じ様に子供を産んだとしたら、恐ろしく早く36才でお婆さんとなるではありませんか。呼び方とは、年を表しているようで分からないものです。
考えてみたら、小説で良く江戸時代に14、5才で嫁に行ったとか売られたと言う話か出てきます。その年でしたら中学生の子、昔でしたら嫁入りに行って不思議では無いと思います。でも、何時も思うのが、本当なのか数え年なら異常に若いので驚きます。
今のように栄養状態が良くない時に、殆どの娘が胸の膨らみなど、見受けられないのは当然だと思います。
人生50年、世の中がそうしないと若くして死んでしまう社会でしたのでしょう。昔、その栄養状態から言っても、その年で子を持つのは現在の私としては驚異の事です。
ひょっとして昭和30年前後は、お年寄りの人が少なかったのではないかと思います。自分のお婆さんでも、遊びに行ったのは覚えていますが、周りにお年寄り、それどころか他の人がいたとは覚えていません。そのお婆さんにしても、自分の思っている年齢よりもっと若いのではとないかなと思っています。と言う訳で、今考えても、老人を余り思い出す事がありません。
今の子供は、高齢化社会の現在において、そこら中、周りに年寄りばかりいて大きくなると思います。大体呼び方は、そもそも、幼稚園児にすれば、お姉ちゃんやお兄ちゃんとは、自分より年上の人、小学生、中学生であるに違いないです。そうすると、高校生や大学生も辛うじてそう呼ばれ、それ以上の人は、残念ながら、オバサンやオジサンと呼ばれる年が幅広くても不思議ではありません。お爺さん、お婆さんと呼ばれるのは親がそう呼ばすか、見た目に違いないです。で、私はと言うと、オジサンと呼んでくれると思います。
しかし、私もオジイチャンと呼ばれるのが当然となる年になって来ました。これを言いたくて遠回しになり申し訳無いです。友人で、50才の時に実際におじいちゃんになった人がいますから、これも分かります。しかし、これ程呼び方で自分の年を知らされるとは考えませんでした。
以前近くに住んでいた若夫婦で、現在でも信じられない話ですが、18歳の時に自宅で子供を産み救急車も呼ばずに、疲れて朝まで寝こんで胎盤をゴミと一緒に捨てた人がいます。私など真似が出来ません。
その人の子が、親と同じ様に子供を産んだとしたら、恐ろしく早く36才でお婆さんとなるではありませんか。呼び方とは、年を表しているようで分からないものです。
考えてみたら、小説で良く江戸時代に14、5才で嫁に行ったとか売られたと言う話か出てきます。その年でしたら中学生の子、昔でしたら嫁入りに行って不思議では無いと思います。でも、何時も思うのが、本当なのか数え年なら異常に若いので驚きます。
今のように栄養状態が良くない時に、殆どの娘が胸の膨らみなど、見受けられないのは当然だと思います。
人生50年、世の中がそうしないと若くして死んでしまう社会でしたのでしょう。昔、その栄養状態から言っても、その年で子を持つのは現在の私としては驚異の事です。