内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

おのが姿に身をかくしけり ― 純白無垢の雪景色

2014-01-17 00:10:00 | 詩歌逍遥

冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり

 道元禅師和歌集とされる『傘松道詠』中の「礼拝」と題された一首。同歌集の編纂・流布は江戸時代のことで、収録歌中道元真作かどうか疑われる歌も少なくないようである。そのような専門的な考究はともかくとして、歌の字面を素直にたどれば、「冬の枯草も見えないほどに降り積もった白一色の雪野原にいる白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだ」というほどの意味だと了解するのに困難はない平明な歌である。この歌がなぜ「礼拝」と題されているのか、その理由を深読みしようとすることも、歌集の編纂過程を考えれば、あまり意味のないことだろうし、この歌から道元の思想に迫るというのもちょっと無理な注文だろう。
 この歌を冬になるとふと思い出すというばかりで、手元には同歌集の注釈書もなく、この歌に関連しそうな道元の諸著作を参照したわけでもない。手元にある本の中では、唐木順三の『日本人の心の歴史 上』中の「冬の美の発見」と題された第九章に数行この歌に言及した箇所を見出すことができるだけである(筑摩叢書、1976年、180頁)。そこで唐木は、上記の歌を引いた上で、それに対して次のような評釈を加える。

これには「禮拜」といふ題がついてゐる。白い雪野の中の白い鷺、その鷺が、その白さの中に身を沈めかくしてゐるといふのであらう。ではなぜそれが「禮拜」か。道元自身がその白鷺を禮拜したのか。白鷺を模範としたのか。おそらくさうだらう。
『正法眼蔵』「現成公案」の巻に「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ」といふ言葉がでてくる。悟りの痕跡を残してゐたのではそれは悟りではない。悟つたといふ意識をも捨てよ、捨てることをも捨てて、悟りになりきれといふのであらう。悟りをも悟りつくせといふのであらう。白一色の雪の野に、おのが身をかくしつくす白鷺のやうに、佛法の白漫々地のなかで純白無垢になれといふのであらう。

 唐木の諸著作には若い頃随分親しみ、学ぶところ多かったし、今でも読み返すと、日本文化の固有性へのその鋭敏な感性に教えられるところ少なくないが、この引用の最後のところには少し違和感を覚えてしまう。とはいえ、唐木の解釈に正面切って反論する準備も蓄積も今はなく、ただ次のような浮薄な半畳を入れることを許されたし。
 ここは「純白無垢になれ」というような命令法なのだろうか。己自身のありのままの姿によって、他に対して際立つのではなく、風景の中に身を隠し、そのことで自分もまたその中にある純白無垢の雪景色がそれとして立ち現れる。そのような白鷺の有り方に気づいた、と言っているだけではないのだろうか。そのような白鷺を己の修行の模範にしようという計らいなど、少なくともこの歌のうちには読み取れない。白鷺はもともと白いのであって、白くなろうとして白くなったのではない。我が身を隠そうとして雪野に飛来したのでもない。白鷺がただそのままそこに居る、まさにそれゆえにこそその姿は雪野の中に消し去られ、純白無垢の雪景色がただただそれとして立ち現れた。それ以上でも以下でもない。