内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

告げぬ恋、秘められた恋人の突然の訃報 に触れて― 漱石名句集(1)

2014-01-15 00:10:00 | 詩歌逍遥

有る程の菊抛げ入れよ棺の中

 明治四十三年、修善寺の大患後、東京に帰り、胃腸病院入院中の作。日記には、十一月十三日のところに「新聞で楠緒子さんの死を知る。九日大磯で死んで、十九日東京で葬式の由。驚く。」とあり、二日後の十五日の記事には、「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」と前書きして、この句とその前にもう一句併記されている。そのもう一句「棺には菊抛げ入れよ有らん程」は、『思い出す事など』や『漱石俳句集』には取られていない。確かに、ありったけの菊を投げ入れるという劇しい動作が「棺の中」に収束する上掲句のほうが余韻において深いと思う。
 記事中の「楠緒子さん」とは大塚楠緒子のこと。明治八年、東京麹町の富裕な裁判官の家に長女として生まれ、少女期から短歌、美文を発表。東京師範附属女学校(お茶の水高女の前身)を首席卒業。美貌の才媛として当時の東大生たちの間で評判になっていたという。漱石が東大大学院在学中に寄宿舎で同室だった学部以来の友人、小屋保治が後にこの楠緒子と大塚家の婿養子として結婚。漱石はもう一人の婿養子候補だった。保治と楠緒子の結婚の直後、漱石は、愛媛県尋常中学校(松山中学)に嘱託講師として赴任。楠緒子への尽きせぬ想いは、かくして漱石の胸のうちに深く秘められ、その秘められた想いが創作のモティーフとして以後繰り返し変奏されていく。
 明治四十三年十一月、楠緒子急逝。享年三十六。胃腸病院入院中の漱石に訃報が入る。修善寺で大吐血、人事不省に陥り、生死の境を彷徨った後、東京で予後を養っている時のことである。そこで冒頭に掲げた句が作られた。抒情に溺れず、悲嘆を悲嘆として詠まず、それらを断ち切り、秘められた恋人への追悼として、端的に具体的な一つの所作を命ずるこの凝縮された形象的表現は、人は人に対して結局のところ何で有りうるのか、何を為しうるのか、という根本的な問いを私に突きつける。