西田の詠んだ短歌は、文学作品として評価されうるほどの技巧と完成度を持ったものではないが、それだけに折々の感情が直によく表現されている歌が少なくない。本居宣長が『あしわけをぶね』で展開した和歌論の基本的テーゼ「ただ心に思ふことをいふより外なし」にまさに適った作歌姿勢だとさえ言えるかもしれない。それに、西田は、作歌を哲学的思索の合間の単なる慰みごととは見なしていなかった。自分の短歌観を持ち、作歌に際しては、それとして真剣に取り組んだと思われる。「短歌について」と題された1933年に『アララギ』に掲載された随筆では、「私は短歌によっては極めて内面的なるものが言い表されると思う。短歌は情緒の律動を現すものとして、勝義に於て抒情的というべきであろう」と述べている(岩波文庫『西田幾多郎歌集』91頁)。
西田は、歌人島木赤彦と若干の交流があり、それに触れた短い文章を二つ残している。一つは、「島木赤彦君」と題された随筆、もう一つは、『赤彦全集』推薦の辞である。前者は、赤彦の没年1926年に没後半年ほどした10月『アララギ』に掲載された。故人についての回想と『歌道小見』についての感想を手短に記した後、「写生」という赤彦の歌論にとっての根本概念について、西田らしい哲学的見解が簡潔に表明されている。
写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある、真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ。我々の身体は我々の生命の表現である。泣く所笑う所、一に潜める生命の表現ならざるはない。表現とは自己が自己の姿を見ることである。十七字の俳句、三十一文字の短歌も物自身の有つ真の生命の表現に外ならない。(中略)詩に於て物は物自身の姿を見るのである。生きるとは形を有つことであり、自己自身の形を有するもののみ生きたものである、形なきものは死せる概念に過ぎない(西田前掲書84頁)。
この随筆が発表される数カ月前に、西田は論文「場所」を発表している。この随筆での写生論は場所論と無縁ではない、と仮定することは、だから、必ずしも牽強付会とは言えないであろう。この仮定に従えば、この写生論から場所論を理解するという一つの方途も見えてくる。
この随筆では、自己が自己の姿を見ること、それが表現であり、その具体的な実現の形として俳句も短歌も捉えられている。この表現論から、西田のいう場所とは、自らの内に物の像を映すだけで、その物とは区別されそれ自体は不変のままにとどまる鏡のようなものではなく、物が物自身の姿をある形において見ること、言葉が生命の表現として自らをある音の連なりとして聞くことそのことだという規定を引き出すこともできる。私たちの身体についても同様である。私たちの躍動する身体が生命の表現として自らを生きることそのことが場所なのであり、そこから〈自己〉という関係性も生まれてくるのであり、逆ではない。
かにかくに思ひし事の跡絶えてたゞ春の日ぞ親しまれける
この歌は昨日の記事の冒頭に掲げた歌の約二週間後に詠まれている。家庭内の度重なる不幸の只中にあって詠まれたこの歌そのものにおいて、一切の思い煩いによって損なわれることのない穏やかな春の陽光がそそぎ、その温みに親しむものとして陽に抱かれた作者がそれとして気づかれ、春日の風光の中に分節化されている。〈私〉が抒情するのではなく、抒情が〈私〉を情感的場所に立ち現れさせているのだ。