嗚呼見の浦に船乗りすらむ娘子らが玉裳の裾に潮満つらむか (巻一・四〇)
詞書に「伊勢の国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌」とあるから、持統天皇の伊勢行幸に供奉しなかった人麻呂が、明日香の都で詠んだ歌だとわかる。つまり、当地の光景を目の前にしての叙景歌ではなく、そこから遠く離れた場所からその地の行幸の一情景を思いやりながらの作。角川文庫『新版万葉集 一』伊藤博訳は、「嗚呼見の浦で船遊びをしているおとめたちの美しい裳の裾に、今頃は潮が満ち寄せていることであろうか」とし、「娘子の裳裾の濡れるさまは男性にとって心引かれる景とされた」と注する。岩波文庫新版『万葉集 一』は、「あみの浦で今ごろ船に乗りこんでいるに違いないおとめたちの美しい裳裾に、潮が満ち寄せているだろうか」と訳しているが、この訳だと娘子たちはすでに船に乗りこんでいるのだから、なぜその裳裾に潮が満ち寄せるのかという疑問が湧く。伊藤訳からは、乙女たちは浅瀬に停泊した船の周りで戯れていたのかもしれないと想像することもできる。その想像から、彼女たちの濡れた裳が下肢に張りつき、その柔らかな曲線を浮かび上がらせるという魅惑的な情景も目に浮かんでくる。乙女たちの巧むことなき初々しく清冽な官能性が人麻呂の詩的想像力によって純化された名歌だと言えようか。