信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ (巻十四・三四〇〇)
「さざれ石」は、原文では「左射礼思」となっているから、「サザレシ」と訓む。東歌らしい素直な詠み振りだから、歌意の理解に困難はない。「信濃の千曲の川の細れ石も、いとしい君が踏んだ石なら、玉と思って拾いましょう」(角川文庫『新版万葉集 三』伊藤博訳)。愛しい人が触れた物が宝玉のように大切なものとなり、とりわけその愛しい人が遠く離れているときには、その物をその人そのもののように大切にするという感受性は、万葉歌の中に広くその表現例が認められるが、感受性そのものとしてはいつの時代にもありうることだろう。愛しい人が触れたものは、たとえそれが河原を歩いている時に踏んだ小さな石ころの一つであったとしても、その人が触れたものだというただそのことだけで、万の宝石よりも掛け替えのないものに変容する。それまでは日常の風景のほんの一部をなしているに過ぎなったかった些細なものが何よりも大切なものに変容する。そのような世界の物象変容を経験することが「恋」なのだ。