昨年末からパースについての記事を投稿し始めたのは、今月21日の研究集会の準備として鶴見俊輔『アメリカ哲学』を読み始め、その最初の方がパース哲学の紹介に割かれており、それがとても面白かったからで、それ以上の理由はなかった。ところが、今さっきアマゾンから届いた(日本では、休日でも、それがたとえ元日であっても、宅配便は配達があるのですね。それだけで新年早々ちょっと感動しました。フランスじゃ金輪際ありえない話ですから)パースの『連続性の哲学』(岩波文庫、伊藤邦武編訳、2001年)と魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫、2006年)をあちこち拾い読みしていて、ふと今年2014年がパース没後百年になることに気づいた。ちょっと不思議な縁のようなものを感じる。
鶴見の『アメリカ哲学』を読み始める前は、パースの著作は私の研究対象書リストにはまったく入っていなかったのであるが、今日2014年元日から研究上の必読書の上位にランクされることになる。しかも、それは新たに加わった一対象ということにはとどまらない。というのも、まだパースを読み始めたばかりの今の段階では、私の予測に誤解や無理解の危険も大いに孕まれていると言わざるをえないが、それを承知の上で敢えて言えば、パース晩年の形而上学的構想である「連続主義(synechism)の哲学」と私がかねてから研究しているラヴェッソンの習慣論とノヴァーリスのロマン主義的哲学との間には、いくつか交差する点が見出され、それらの交点においてパースの哲学が私自身の哲学的構想である「受容性の哲学」の基幹部分に触れてくるからである。
連続主義とは、「存在する一切のものは連続的であるとする主張」であり、「一切の事物は、不確実性と不確定性からなるもろもろの連続体のなかにうかんでいる」という「連続性の原理」にもとづいている。しかし「連続性の原理は、可謬主義の観念を客観化したものである。なぜなら可謬主義とは、私たちの知識はけっして絶対的なものではなく、いわば、つねに不確実性と不確定性からなる連続体のなかにうかんでいる、という主張だからである。」(魚津前掲書124-125頁)このような連続主義の最初のテーゼ「存在する一切のものは連続的である」は、そのままラヴェッソンの習慣論の基本テーゼとして適用することができる。パースにはまさに「習慣」と題された論文があり(前掲書『連続性の哲学』に第五章として収録されている)、そこでは、人間精神の大原則の一つとして習慣獲得の法則が論じられており、習慣の存在論的身分についてラヴェッソンと近い立場が取られているばかりでなく、ラヴェッソンにおいてよりも認識の方法としての習慣がより緻密に規定されている。
「存在する一切のものは連続的である」という主張は、ノヴァーリスの哲学的探究と文学的創造の集約的テーゼでもありうるだろう。万有の連続性に参与するものこそ精神の名にふさわしい。ノヴァーリスはある断章においてこう言っている。「私たちは世界〈面〉を探し求める。私たち自身がその世界〈面〉なのだ。私たちは何なのか。個別に人格化された万能の諸点なのである。」ノヴァーリスは何を言おうとしているのか。私は次のように解釈する。個々の点であるかぎりにおいて私たち人間は有限であり広がりを持たないが、それが世界〈面〉に含まれる一点であるかぎり、その〈面〉の他の無数の点と何らかの規則に従いつつ繋がることができ、それによってその〈面〉上に他の様々な点とともに無限に多様な形を描き出すことができる創造の起点でありうる。