内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

脱構築の先駆けとしてのプラグマティズム ― パースの記号論からデリダの『グラマトロジー』へ

2014-01-25 03:23:46 | 哲学

 21日のパリ第七大学研究集会での合田正人氏の発表は、鶴見俊輔におけるプラグマティズムを中心的なテーマとしていたが、発表の後半で竹内好が鶴見に最も深い影響を与えた思想家の一人として取り上げられており、その部分はプラグマティズムという問題圏を超え出る内容を含んでいるので、その部分については、鶴見を直接の対象とした部分の紹介を終えてから、別の記事として取り上げる。
 合田氏の鶴見解釈の狙いははっきりとしていた。『アメリカ哲学』での鶴見によるパース哲学の紹介を介して、同書での鶴見の哲学的企図を同じくそのパースの哲学に強い関心を示したデリダの脱構築の先取りとして解釈するという目論見である。より正確に言えば、デリダが『グラマトロジー』の中でパースの記号論に言及している箇所を手掛かりに、すべての思考は記号における思考であり、記号を超越したいかなる外的対象そのものを思考することも、内的直観によって直接的に自己そのものを把握することも原理的に不可能であるとする、根本的記号論への志向を鶴見の中にも読み取ろうとする試みである。思考とは、ある対象を何らかの仕方で代理する記号においてのみ可能なのであり、その記号は他の記号へと無限に先送り・転送され、それら記号の連鎖の果てにそれらによって指示されたそれ自体は自己同一的にとどまる実体そのものを思考することは原理的にできない。こうした徹底した態度を鶴見はパースのプラグマティズムから学んだとするのが合田解釈である。
 私は、この解釈に対して、少なくとも1950年という『アメリカ哲学』刊行時の鶴見の立場をそこまでデリダの脱構築に引きつけて解釈することには無理があり、そのような解釈は当時の鶴見自身の哲学的企図の射程を見損なわせる危険があるのではないかと質問した。それに対して、合田氏自身、この解釈の展開はこれからの自分の課題の一つだとの応答だったので、氏による後日の展開を期待したい。
 この質問に付随する形で私が素描した別の解釈は、『アメリカ哲学』第十五章の次の一節を念頭に置いてのことだった。

 哲学の改革は、哲学の打倒に始まらなくては、少しもきき目がない。哲学専門家というクラスの人々を、なくしてしまい、哲学のニナイ手が、外の人たち(非哲学者)に移るように努力するのが有効である。
『鶴見俊輔著作集』(筑摩書房、1975年)第一巻、171頁。

 哲学のニナイ手は、職業哲学者から、それ以外の人々に移らなくては困る。今まで哲学の外にあった人々こそ哲学の本当のニナイ手なのだ。
 哲学を、哲学者の手からとりもどして、人々にかえすことこそ、今日の重大な問題である。なぜなら、哲学は別に特別の一学問ではなく、「どんなことが正しく、どんなことが善く、どんなことが美しいか」についての思索なのであるから。これらの問題について考えることは、今日の社会に生きているそれぞれの人の役目である。(同書同頁)

 職業哲学者によって大学で知識として教えられる哲学の諸学説が哲学なのではなく、哲学とはまずもって普段の暮らしの中で基本的な問題を考え抜くことであり、そのようにして生きることそのことが哲学なのだということが同書同章では切実に訴えられている。鶴見がここで「哲学を人々にかえす」というとき、その哲学とはまさに生き方としての哲学であり、それは日々の生活の中での実践という形で実現されるべきことである。このようなパースペクティヴの中で、鶴見のプラグマティズムを、このブログで昨夏7月30日から8月3日にかけて五回に渡って紹介したピエール・アド(Pierre Hadot 1922-2010)が言うところの exercice spirituel の一つの形としてその系譜に連なる哲学的実践として捉えてみようというのが私の提案した解釈であった。