世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
萬葉集巻五冒頭の雑歌(七九三)であるこの大伴旅人の歌は、古来よく知られた万葉歌の一つである。
原文は一字一音の万葉仮名で表記されているので、訓みにまぎれ無し。「いよよ」は「いよいよ」の古形で、万葉集の歌のみに見られる形。「けり」は「気づき」を表わす。岩波文庫の新版『万葉集』は、「世間は空(くう)であると真に分かった時、いよいよますます悲しい思いがするのでした」と訳し、角川文庫の伊藤博訳は「世の中とは空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてきてしまうのです」となっている。両訳の違いは、前者が「牟奈之伎母乃(むなしきもの)」を仏教語「空」に置き換えているのに対し、後者が「空しいもの」とそのまま現代語に置き換えていることである。前者のほうが作歌の背景となっている旅人の仏教的知識をより明瞭に訳中に打ち出そうとしていると言うことができる。そのことは「真に分かった時」という受け方にも現われている。後者は、それに対して、これらの含意を脚注で、「上二句は「世間空」の翻案」、「知る」は「思想的に思い知る意」と説明している。
いずれにしても、この歌の第ニ句における「空しき」とは、単に移ろいやすい感情や漠然とした気分のことではなく、「空しきものと知る」も、単に出来事によってそう思い知らされたということには尽きないであろう。この上三句は、この世の中の一切を「空」と観じるところまで心が到達したことを強意の副助詞「し」によって強調しており、その「時」こそ、悲しみがますます深まる、と下二句がそれを受けている。しかし、それだけではない。気づきの「けり」で結ばれていることからわかるように、「悲しみ」それ自らがより深いところからこみあげてきてしまうのをどうすることもできないことに気づかされているのだ。私はこれを「空」観を通じての「悲しみ」の純化と呼びたい。「空」と見切られた「世の中」に悲しみをまぎらわせてくれる慰めはもはやない。その時、「悲しみ」そのものの自己触発がそれとして気づかれる。西田幾多郎が「哲學の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言うとき、同じ事柄に触れていると私は考える。