先週火曜日21日のパリ第七大学研究集会から早一週間以上が経ってしまった。この集会にディスカッサントとして参加するのための準備として読んだテキストと当日の議論を振り返りながら、そこで得られた知見を反芻する時間がなかなか見つからない。今日(29日水曜日)もまだ試験の採点と明日の講義の準備が残っているので、ごく簡単にその反芻の緒を記すにとどめざるを得ない。
合田正人氏の発表では、鶴見俊輔に思想的に深い動揺を引き起こしかつ強烈な吸引力を感じさせた異数の思想家として、竹内好が取り上げてられていた。竹内は1910年生れで、鶴見より12歳年長。合田氏が参照していたテキストは、鶴見の『竹内好 ある方法の伝記』(岩波現代文庫、2010年)。同書の初版は、1995年にリブロポートより「シリーズ民間日本学者」の一冊として刊行されている。岩波現代文庫版には、このブログでも先週26日の記事ですでに言及した「戦中思想再考 ― 竹内好を手がかりとして」が併録されている。
戦中戦後と鶴見とは異なった思想的道程を歩んだこの思想家が、その生き方そのものによって提起した思想的課題を考え抜くことが鶴見にとって最終的な課題の一つであることは、竹内の没後二十年近く経って七十歳を過ぎてから同書が書かれていること、その副題が「ある方法の伝記」となっていることからも推測できる。この知的評伝をよく理解するためには、その前提として竹内自身の著作、少なくとも同書で引用されている著作類は一通り読んでおかなくてはならないであろう。しかし、今それはどうにも無理なことなので、今できることとして、これから自分で問題を考えていくための手がかりになりそうな箇所をいくつか同書から引用して、それらにコメントをつけておきたい。
竹内は、1937年10月から約二年間、途中父の死に際して一時帰国した期間を除いて、北京に留学している。ただ留学と言っても、当時の中国の大学は閉鎖されていた。その時の状況を述べた箇所を鶴見の本から引く。
日本軍による中国人の無差別虐殺のはなしがそれも当事者によってほこらかにつたえられる。こういう状況の下で、日本人とのつきあいは竹内好にとって重苦しい。(中略)まして中国人に対しては、同情を率直に表現することははずかしく、おたがいの思想の伝達は、抑制を必要とした。にもかかわらず、竹内は中国人の間に、友人を得た(62頁)。
この友人宛に竹内は「中国人のある旧友へ」と題した文章を『近代文学』1950年五月号に発表している。鶴見はこの文章から竹内の内心の声を聞き取ろうとしている。鶴見の本には、この文章からの長い引用がいくつかあるが、その「結び」も引用されている。そこに竹内はこう記している。
一口にいえば、私はほとんど現状に絶望しております。さまざまな動きがありますが、どれも私には戦争中のものと本質的なちがいがあるように思えません。日本と中国とを結ぶ紐帯は、人民的規模において、まだ基盤が準備されていないような気がします(68頁)。
この文章が書かれてから64年経った今日、当時とは大きく異なった時代状況にありながら、竹内好によって感じられた絶望はさらに深まってしまったと言わざるをえないのではないであろうか。