内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

父の墓参り ― 託された封筒の中身

2014-01-04 19:05:01 | 雑感

 今日、妹の運転で母と一緒に高尾にある父の墓参りに行ってきた。母と妹にとっては昨年春以来の墓参だが、私には前回の墓参がいつだったかすぐには思い出せないほど久しぶりのことだった。フランスで暮らすようになった十八年前からは、短期の一時帰国の際にはつい機会を逸してばかりいて、少なくともここ九年は墓参をしていない。それだけでも十分に親不孝な息子である。
 父は私が高校二年生の時に癌で亡くなった。四九歳の誕生日の前日のことだった。発病はその二年前に遡り、以降入退院を繰り返していたので、高校生になってからは父の元気な姿を見ることはなかった。父が健在であったなら、私の人生も随分違ったものになっていただろうと思う。特に仲の良い父子というわけではなかったけれど、父の趣味であった海釣りには、小中学校時代しばしば一緒に出かけた。
 父が仕事の上でもっとも活躍していたのは、ソ連と東欧諸国との貿易促進のために頻繁にそれらの国々に出張していた1950年代後半から60年代前半にかけてのことだった。母の思い出話によると、その頃は海外に出張する日本人はまだ少なく、出張のたびに親族・同僚が羽田空港まで見送りに行ったものだそうである。私はその頃まだ小さすぎて当時のことはほとんど何も覚えていないのだが、母の話によると、私はすっかり父と一緒に出発する気でいて、そうではないとわかると、父の片足にしがみついて離れようとせず、父や周りの大人たちを往生させたらしい。「子供の入り口は別なのだ」と母方の祖父がなだめすかして、やっとのことで引き離したそうである。
 亡くなる前年のクリスマス・イヴの夜、母と妹は教会の愛餐会に出かけ、自宅療養中だった父と私は家に残り、二人で夕食を食べた。そのときの会話がどんな内容だったかもうよく覚えていないのだが、父が一言、無念の表情を浮かべながら、「私の人生は失敗だったよ」とポツリと言ったのは忘れられない。高校一年の息子にはどう返答していいのかもわからなかった。
 翌年に入り、病気の進行によって苛立つことが多くなった父が、いつになくにこやかな表情で私の勉強部屋に入ってきて、「これ、いつでもいいから写真屋に持って行ってくれないか。ただ渡すだけでいいから」と私に大判の封筒を手渡しながら頼んだ。ちょうど勉強中だった私は、「うん、わかった」と一言返事しただけで、受け取った封筒を書棚の一番上に無造作に置いたまま、父の頼みをすっかり忘れてしまった。父もその後私に催促しなかった。
 その年の後半、結果としてそれが最後となる入院後は、通っていた高校から入院先の国立がん研究センターまで日比谷線で10分足らずと近かったということもあり、放課後頻繁に見舞いに行った。地下鉄のストライキの影響で高校が休みになった一週間ほどは毎日通った。すでに寝たままのことが多くなっていた父と特に会話があったわけではなく、何時間か父の枕辺で参考書を広げ試験勉強をしていた。夕方、「じゃ、もう帰るよ」と言って立ち上がると、私の手を強く握って「ありがとう」と何度も繰り返す父を個室に一人残すことに、まさに後ろ髪引かれる思いで病室を後にした。
 父の死の翌日、葬儀の時の写真をどうするかということが親族と葬儀の準備を手伝ってくれている人たちの間で話題になったとき、ハッとした。もしかして父が私に託した封筒の中身は遺影のための写真だったのではないかと気づいたのだ。その時はまだ病院の霊安室で母に付き添っていた私は自分で確かめに自宅に戻ることはできなかったので、人を頼んで見に行ってもらった。思った通りだった。封筒には、父自身が遺影として選んだ写真とそのトリミングの仕方を説明した紙片が入っていた。しかし、残念ながらその写真は遺影用として拡大しても使えるほどピントが合っていなかったので、結果としては母が選んだ別の写真が遺影と使われた。
 父が私に遺影用の写真を託した理由は明らかだった。私がすぐに父の頼みを実行すれば、それが何のための写真か私にもわかってしまう。それを承知の上で私に託したのだから、そのようにして父は自分がもうこの先長くはないことを息子に伝えたかったのだろう。封筒を受け取ってからしばらくして、母から父がもう長くないことを聞いたので、私は父が望んだのとは別の仕方で父の余命が短いことを知ったことになる。そのときすでに病気が深刻な状態であることは見ればわかったが、入院を嫌い、自宅療養を望み、できるかぎり家族と共に過ごしたがっていた父が後せいぜい数ヶ月しか生きられないと知ったときの衝撃は大きかった。もし、一人で封筒の中身を見ていたら、私はどのようにそれを受け止めえただろうか。
 今日、穏やかな冬晴れの空の下、父に長年の無沙汰を詫びた。いつまでたっても頼りにならないどころか、覚束ない日々に右往左往するばかりの息子に歯がゆい思いをしていることであろう。次回の墓参には、少しは父が喜んでくれそうな報告をしたい。