内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西田幾多郎と夏目漱石-短歌と俳句-膠着語と孤立語-連続と断絶

2014-01-14 00:45:00 | 読游摘録

 昨日の記事で引用した随筆「短歌について」の中で、西田は、短詩形の表現の固有性に触れ、次のように述べている。

短詩の形式によって人生を表現するということは、単に人生を短詩の形式によって表現するということではなく、人生には唯、短詩の形式によってのみ摑み得る人生の意義というものがあることを意味するのである。短詩の形式によって人生を摑むということは、人生を現在の中心から摑むということでなければならぬ。刹那の一点から見るということでなければならぬ(岩波文庫『西田幾多郎歌集』90-91頁)。

 しかし、俳句と短歌との違いについては、昨日引用した箇所の直前で、「俳句には俳句の領域があり、短歌には短歌の領域がある」と言っているだけで、俳句固有の領域については何も説明していない。実際、西田自身、短歌は数百首詠んでいるのに対して、俳句は全部合わせても百句ほど、しかも作句は三十代前半の第四高等学校教授時代に集中しており、出来栄えからしても、それとして論じるに値するほどの句はないようである。これは、短歌については独自の見解を持っており、読むものの心に触れる作品があるのと好対照をなしている。
 西田が東大選科生時代に教室で机を並べたこともあった一学年上の夏目漱石(「明治二十四、五年頃の東大文科大学選科」、岩波文庫『西田幾多郎随筆集』32頁)は、西田とは対照的に、生涯に約二六〇〇句の俳句を残したのに対し、短歌は全集に僅か八首しか収められていない。それに、漱石の俳句は、友人であり俳句の師匠でもあった正岡子規から、その独自の意匠を称賛されており、俳句作者としても独自の境地を拓いているし、『草枕』を自ら「俳句的小説」とも称していたから、漱石文学における俳句の位置は、西田哲学における短歌の位置よりはるかに重要であり、それについての研究も少なくない。
 しかし、作品としての質の高さ・その重要度云々ということはひとまず措くとして、私がここで注目したいのは、短歌においては、正岡子規が主催した「根岸短歌会」からアララギ派が生れ、島木赤彦はそれに連なり、その赤彦と西田に若干の交流があったのに対して、俳句においては、同じ子規を中心として極めて活発な創作活動を展開した日本派の中でもひときわ光るのが漱石だった(小西甚一『俳句の世界』講談社学術文庫、1995年、269頁)という事実である。この事実は、近代日本語における文学思想表現の系譜という観点から、非常に示唆的であると私には思われる。
 1月10日の記事で取り上げた佐竹昭広『萬葉集再読』には、「漱石と萬葉集」と題された大変興味深い論文が収められている。その中で佐竹は、「漱石は正岡子規から俳句を学んだが、短歌の道を学んだとは言えない。和歌に関する限り、子規の影響は漱石において皆無と言っても過言ではない」と言い切っている(同書205頁)。そこからさらに、「本来、漱石は、和歌が好きではなかったのではないか。気質的に和歌を受けつけなかったのではないか」と推論し、寺田寅彦による歌人と俳人との「通有的相違」についての説を引いた上で、その観点からすれば、「漱石は和歌型の人間ではなかった」という帰結を引き出す(206頁)。その後、和歌と俳句・漢詩との一般的差異論を展開し、以下の様に両者の違いを際立たせる。

日本の和歌は典型的な膠着語の文学であるが、これに対比すれば、漢詩・俳句は孤立語的な文学であると、譬えて言うことが可能であろう。
俳句は連歌の発句から発生したが、母体となった短歌が最も連続的な文学であるのに対して、俳句は、より多く断絶を志している(208頁)。

 漱石が、自らの文体について、「常に孤立語的な断絶志向の文体を選び続け、日本語の表現にとって、桎梏とも言うべき膠着語的性格からの離脱を、彼独自の形で見事に果たし得た作家であった」(208-209頁)と言うことができるとすれば、西田は、日本語の膠着語的性格と格闘しながら、そこから離脱するのではなく、むしろそれに沈潜することで、その性格においてはじめて可能となる思想表現を自らの哲学として形成した哲学者だったと言うことができるかもしれない。