内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生へのはじめの一歩 ― 幻想の「山里」か現実の「憂き世」か

2014-01-09 06:36:36 | 雑感

 今日(8日)、午前7時にアンリ四世校裏のプール Jean Taris に行く。40分ほど泳いで切り上げる。その後は午後4時過ぎまで講義の準備に集中。
 講義そのものはほぼ予定通りに進めることができた。大森荘蔵の最後の文章「自分に出会う ― 意識こそ人と世界を隔てる元凶」の全文を段落ごとに仏訳しながら、適宜コメントを加えて行った。その過程で大森哲学の問題点を突いたとてもいい質問が三つ、それぞれ別々の学生から出た。訳読に引続き、今年度取り上げた十人の哲学者・思想家について、それぞれの鍵概念を示して、重要な論点を一つに絞ってまとめようとした。ここは急ぎ過ぎた。あまりにも図式的だった。しかし先を急がねばならない。十人のうちの少なくとも三人について共通して提起されうる問いを七つ例として挙げる。最後に試験内容についての説明と試験勉強のためのアドヴァイス。ちょうど二時間。これで今年度の「同時代思想」の講義は終了。熱心な学生たちのおかげで、とりわけ彼らの要処を突いた質問によって助けられながら、最後まで緊張感を保って終えることができた。彼らに心からの感謝を捧げる。
 午前中、その講義の準備のために『家永三郎集』第一巻第一論文「日本思想史に於ける否定の論理の発達」の中の講義で取り上げた箇所をあちこち読み直していたとき、ふと手が滑って第二論文「日本思想史における宗教的自然観の展開」の第十二節の冒頭の頁に飛んでしまった。すると、その頁の次の一節が、向こうからこちらの目に飛び込んできたかのように、私の注意を引いた。

 山里は、既に詳述した通り人間から遮断せられた世界たることを第一の条件とし、それ故に人間の痛苦から脱却することが出来たのであつたが、そのことは亦裏から云ふならば懐しい一族友人から隔離せられた寂寥の世界をも意味するのである。憂きことしげき世の中に在ることもつらいが、孤独と寂寥との一層つらいことは、流罪が死罪に次ぐ重い刑罰とされてゐた事実からも容易に類推されよう。山里に入ることは自らこの刑罰を身に負ふことに外ならぬ。だから「山に入るとて」は、「神無月しぐればかりを身にそへて知らぬ山路に入るぞ悲しき」(後撰集冬増基法師)と云ふ感懐の漏れるのも無理は無かつた。入る時からして既に悲しい山里はさてどんな所であつたか。それは何よりも先づ語らふ人無き寂しさにみたされた天地であつた(117頁)。

 このまったく予期せぬ「邂逅」によって、、心の痛みとともに自分の現在の境遇について考えさせられた。中世の遁世僧や遁世歌人たちの歌に詠まれたような境涯に自分の現在の惨めとしかいいようのない哀れな散文的境遇を准えようなどと烏滸がましいことを考えたのではない。山里とは縁もゆかりもない都市の代表のようなパリの只中に暮らしているのに、自分の暮らしは、その否定的側面において、むしろ山里の暮らしに近いのではないかと気づかされたのである。私にとって、パリに住まうということは、多民族が入り乱れる国際都市で人々と交わって生きることでもなく、華やかな花の都の美を享受することでもなく、幻想の「山里」に独り、語らう人もなく、寂しく生きること以外の何ものでもないのではないか、と思ったのである。
 今から八年前、現在の大学のポストが決まり、夜はほとんど人気のない大学の宿泊施設に滞在しながらアパルトマン探しをしているとき、夜独りベッドに横たわり天井を見つめていると、自ら流罪の刑罰を負ったかのような気持ちになったことを思い出す。本当の山里暮らしの孤独と寂寥は、もちろん別様であろう。しかし、語らう人もないという意味では、人間から遮断された世界に生きているのと変わりなく、今の私の暮らしは「山里」の侘び住まいにほかならない。
 もし私がこれからも生きたいと思うのであれば、この「山里」暮らしをそれとして受け入れて続けていくか、憂きことしげき世に立ち戻るか、いずれにせよ、自覚的に選択しなくてはならない。今日その選択のための最初の一つの決断を人に伝えた。