内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

和と寛容、そのいずれでもなく

2014-09-19 16:16:36 | 講義の余白から

 今日金曜日は、午前九時から十一時までの二年生の古代日本史の一コマだけ。この講義の教室は、確か私が学生だった頃に出来たばかりの建物の中にあるのだが、この二階建ての建物はいわゆるプレパブ作りで、見るからに安っぽく、当時は仮設校舎としてしばらく使うだけで、新しい校舎ができれば取り壊されることになっていたはずである。建物のほとんどは教室として使用されているのだが、日本の小中学校で本校舎改築の際に見かけるような仮校舎として建てる代物を想像してもらえればいい。
 ところが、それから十八年、キャンパスには当時なかった新しい建物もいくつかでき、今も中心部の再整備工事が続いており、全体としては当時より綺麗になっているが、その建物だけは当時とほとんど変わりなく、ただ経年劣化によって見すぼらしくなっただけで、そのまま元の場所に残っているのである。今度の赴任で来て初めてこの建物を見たときも、懐かしさというよりも、「なんだまだあるのか」という落胆の方が大きかった。教室の中にあるのは机と椅子だけ。もちろん黒板はあるが、プロジェクター等教材機器は一切ない空の教室である。こんな教室では、講義する方も受ける方も、何か大学にいるという感じがしない。先週の最初の授業で、「私はこのダサい建物が大嫌いだ」と公言したら、爆笑ととともに、その表情から大方の学生たちも同意見であることがわかった。
 ただ、先週も書いたように、学生数に対してはちょうどいい大きさの教室で、その点ではやりやすい。学生とのインターラクティブな授業が展開しやすい。
 今日のテーマは、飛鳥の朝廷。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を即位させ、いよいよ聖徳太子が登場するのだが、最近の日本の教科書での聖徳太子の扱いは、私が高校で習った頃とは大きく変わっている。まず、当時の呼び名である厩戸王が太字で示され、聖徳太子という呼び名の方はその直後に括弧内に一度示されるだけである(使用教科書は山川出版社の『詳説日本史B』)。そして、「冠位十二階」と「憲法十七条」とについては、それぞれ施行年が示された上で、だた一言「定められた」とだけ記され、誰によってかという点については一切説明がない。もちろん、直前の文に、推古天皇、蘇我馬子、厩戸王の名前は出てくるが、彼らによってという書き方にはなっていない。「定められた」で終わる文の後には、「冠位十二階」「憲法十七条」それぞれについて二、三行の説明があるだけある。さすがに憲法十七条からの抜粋は囲み記事として少し引用されているが。
 これは今日の歴史研究の成果が反映されているからなのであろう。いわゆる「聖徳太子の憲法十七条」という一般に受け入れられてきた考えは、もはや相当な条件付きでないと言えないようになっている。憲法の内容についても、中国伝来の儒教や仏教からの強い影響下に書かれたもので、そこに聖徳太子固有のオリジナルな思想を見ることには相当慎重でなければならなくなっている。
 しかし、それはともかく、この憲法の第一条の最初の言葉「和を以て貴しと為す」(以和為貴)が、日本人の倫理観の基底的テーゼの一つとして、現代にまで受け継がれているということには異論は少ないのではないだろうか。歴史的文脈の説明と、聖徳太子に対する評価の変遷を学生たちに説明した後、歴史を離れ、「和は私たちの行動原則たりうるか」という倫理学的な問題を学生たちに提起し、私の考えを説明した。それを簡単にまとめると次のようになる。
 「和」のテーゼは、すべての人に対して開かれたものでありうる。その出自・国籍がどうであれ、和に参与する、あるいは少なくともそれを乱さないかぎりは、誰もがその和の集合の中に受け入れられうるだろう。この方向では、したがって、「和」のテーゼは、日本固有の価値にどとまることなく、普遍的な志向を持ちうるだろう。しかし、その和の集合の中にその和を乱す要素が発生あるいは闖入してきたらどうなるか。その要素がそのような好ましからざる要素にとどまるかぎり、そして和は根本原則としてあくまでも維持されなければならないかぎり、その要素は和の集合から必然的に排除される。和のテーゼは、この方向に反転したとき、自らのうちにはそれを制止する機制がない。つまり、和を乱すものがすべて排除されなければ、原理として己を維持しえない。この否定的な方向では、和を原理とした組織はどこまでも収縮していこうとする。その収縮傾向は、自分以外は誰も受け入れられないというところまでも極端化しうる。「引きこもり」という社会現象をその一つの結果として見ることもできるだろう。しかし、収縮傾向はそこが終わりではない。もし、自分が自分自身に対して〈和〉を保てなくなるとどういうことになるか。自分で自分を排除せざるを得ない。これが自殺という結果をもたらす、少なくとも一つの理由であるとは言えるであろう。
 それでは、この和のテーゼの否定的な反転傾向に歯止めをかける他の行動原理はないだろうか。それを西欧史の中に探れば、「寛容」がその一つとして挙げられるだろう。自分たちとは異なった考えの人たちをそれとして認めるのが寛容であるとすれば、和を乱すものに対しても、少なくともある程度までは、この原理を適用することができるであろう。しかし、寛容の語源を思い出して欲しい。それはラテン語の tolerare であり、その意味は、「苦痛を感じながらそれに耐える」ということなのだ。つまり、寛容とは、苦痛を与える相手に耐えるということなのであって、決して相手を心から許して、あるいは相手を自分より優先するということではないのだ。繰り返される争いに終止符を打つために提起された、いわば譲歩の産物なのだ(この寛容についての私の考えについては、今年の2月7日8日の記事を参照されたし)。極端かつ挑発的な言い方をあえてすれば、寛容は理解なしに成立する。
 したがって、「和」も「寛容」も社会形成の基礎原理ではあり得ないし、個人の行動の基本原則でもありえない。どちらもある閾値を超えると、まったく機能の方向が反転してしまうからだ。両者を組み合わせたとしても問題の解決にはならない。どうすればいいのだろうか。
 ここまで話して時間が来た。学生たちは真剣に聴き入ってくれていたが、「今日の授業はここまで」と締め括ると、何人かの学生の顔は、「先生、これ、何の授業だったのでしょうか?」と問いたげであった。