今日の午前中は、午後の修士二年の演習と明日の学部三年の中世文学史の準備に費やす。修士の方は、前二回の授業でテキスト読解が遅々として進まなかったので、すでに下調べしてある事項だけでも今回一回分には十分な材料があるから、ほんの一時間ほどテキストを再読して説明事項についてメモを取っただけ。学部の方は、宿題として提出を求めてあったテキストの仏訳は大方の学生が昨日までに送ってくれたし、構文的には比較的簡単な文章だったこともあり訳のできもよく、訳の講評については明日の授業でもそれほど時間を取る必要がない。若干の注意事項をメモするに留める。
午後の修士の演習では、ようやく、古代語「見ゆ」の用法について、佐竹昭広『萬葉集抜書』と白川静『初期万葉論』とから関連箇所を紹介しながら、具体例に基づいてゆっくりと詳しく説明することができた。この「見ゆ」が古今集ではすでに姿を消し、その後の擬古的な用法も、見かけの類似とは裏腹に、万葉の用法とは決定的な点で違ってきてしまっている。言い換えれば、「見ゆ」の上代文学固有の用法をよく掴むことが古代的世界観へ近づく一つの途を開いてくれる。
続いて「見れど飽かぬ」の用法についても立ち入って説明する。柿本人麻呂の国見の歌においては生き生きと使われている「見れど飽かぬ」が、後代の歌人たちにおいては次第に形式化し、その本来の呪術性・神話性を失っていく。しかし、この呪術性・神話性の衰退過程が山部赤人に代表される叙景歌の成立過程でもある。
明日の中世文学史の授業は、『新古今和歌集』の歌風と手法がテーマであるから、ちょっと準備が大変である。「妖艶」や「有心」、そして「幽玄」、これらをどう説明するか。抽象的な通り一遍の定義と説明をしてもほどんど意味はない。やはり和歌の実例を多数挙げ、注釈を加えながら説明していかなくてはならない。今晩はそのためのパワーポイント作りでおそらく徹夜しなくてはならないだろう。でも、何んだかそれが楽しみでもある。今夜一晩、新古今の世界に浸りきることにする。