九月一日にガスが止まり、したがってボイラーも使えず、以来ずっとお湯が使えなかったが、今朝、丸十六日ぶりに目出度くガス・メーターが設置され、それと同時にボイラーもまた使えるようになった。蛇口をひねるとお湯が出てくる有り難さを、流れるお湯に手を浸し、立ち上る湯気を見つめながら、しみじみと感じたしだいである。震災や豪雨等の被災地の方々のご不便を思えば、まったく取るに足りないことで、大騒ぎするようなことではまったくないのであるが、やはり嬉しかったのである。気にかけてくれていた同僚たちに「やっとお湯が使えるようになった!」とメールしたら、即座に「ハレルヤ!」「おめでとぉぉぉぉぉ!」と返事が返ってきた(後者はこの通りに日本語のメールをくれたのである)。湯水の如く湯水を使えるという普段当たり前だと思っていることが、こうして十六日間不可能だったことで、味わうことができた喜びであった。
今日の講義は学部三年の中世日本文学史。先週宿題にしておいたテキスト本文の仏訳の講評と補足説明だけで二時間の講義のうちの一時間半かかり、こちらも昨日同様テキスト読解は遅々として進まない。学生たちも半ば呆れたような顔しているが、それでもけっこう私の説明に耳を傾けているし、中にはものすごい勢いでパソコンのキーを叩いている学生もいる。
今日、特に問題としたのは、テキストにある「王朝文化への思慕とあこがれ」という表現の意味するところである。それを説明するのに「慕ふ」という日本語が古代から現代までどのような意味で使われてきたかというところから説き起こすのであるから、時間がかかって当然である。
その説明の中で『古今和歌集』の中の「したはれて来にし心の身にしあればかへるさまには道も知られず」という藤原兼茂の歌(巻八・離別)を引いて、「ここでの「したふ」は「後を追ってついてゆく」という意味で、全体としては、「あなたを追いかけていつの間にかここまで来てしまった、そんな心が我が身のうちにあるから、さあ帰ろうと思っても、もう帰り道がわからない」というような意味だよ」と説明したら、幾人かの女子学生がこの歌に少し心を動かされたかのようであった。
「あこがれ」の方も同じやり方ですると、もうそれだけで講義が終わってしまいそうだったので、こちらは簡単に済ませたが、本当はこの語についても、和泉式部の「ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」を引いて、「何かを求めて魂が身から彷徨い出る」あるいは「それほどまでに心引かれ、そわそわと落ち着かなくなる」ということなのだということを説明したかったところであるが、それはまた別の機会としよう。
この説明に引き続いて、『新古今集』の美学について、定家の有名な歌を二つ「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」と三夕の歌の一つ「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」を引いて簡単に説明したのだが、そもそも簡単に説明できることではない。それはともかく、言葉の持つイメージ喚起力を極限にまで高めることで幻想的でさえある美的世界を現出させ、しかも本歌取りによって和歌文学の伝統の中の連続性を確保し、さらに『源氏物語』などの物語世界への通路をも開くという、たった三十一文字の中に込められた極めて高度な技巧について説明すると、もう付いていけないとばかりに、皆ため息をついていた。
しかし、講義している本人は、日本の古典文学はなんと繊細かつ豊穣、そして奥行きのある美的体験の世界であることかと説明しながら感動をあらたにしており、大変満足なのである。
これから明日の上代文学史の準備の仕上げをしてから、ほぼ三週間ぶりにゆっくりと風呂に入り、寝ることにする。