内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

習慣 ― 自然の中に受容された自由

2014-09-03 00:00:07 | 哲学

 今日の記事も昨日の記事の末尾の追記で出典を示したAnne Fagot-Largeault の論文 « L’émergence » に依拠している。
 昨日の記事の最後に引用した『習慣論』の一節を読めばわかるように、ラヴェッソンにとって、習慣とは、「生む」自然と「生まれた」自然とを相互に結びつける過程そのものなのである。習慣を研究するということは、したがって、自由が自然化し、自然が自由化(自発化)する過程を研究することにほかならない。一言で言えば、自然の中に受容された自由という問題である。

Toute la suite des êtres n’est donc que la progression continue des puissances successives d’un seul et même principe, qui s’enveloppent les uns les autres dans la hiérarchie des formes de la vie, qui se développent en sens inverse dans le progrès de l’habitude. La limite inférieure est la nécessité, le Destin, si l’on veut, mais dans la spontanéité de la Nature ; la limite supérieure, la Liberté de l’entendement. L’habitude descend de l’une à l’autre ; elle rapproche ces contraires, et, en les rapprochant, elle en dévoile l’essence intime et la nécessaire connexion (Ravaisson, De l’habitude, op. cit., p. 148-149).

故に存在の全系列は、同一の原理より成る相継ぐ諸力の連続的系列に外ならず、これら諸力が生命形式の階層においては、一は他の中に包み込まれて行き、習慣の進行に於ては、それとは逆の方向に繰り拡げられて行くのである。下の限界は必然性である、これを宿命といつてもよいが、自然の自発性の中なる宿命なのである。上の限界は悟性の自由である。習慣は一方から他方へ降って行く。それはこれら反対者を接近させ、さうすることによつて両者の内面的本質と必然的結合とを露はすのである(野田又夫訳62頁)。

 この一節に見て取れるラヴェッソンの独創性は、習慣の獲得を、意志が操作を行うために努力を傾注する状態から、その操作を実行する力能が自発的に発動する状態への移行であると考えた点にある。この考えに従えば、習慣の獲得においては、自動化(機械性)と作用の容易化(自由化)との両方が、それぞれの場合で程度の違いはあれ、同時に実現されているということになる。
 ラヴェッソンにおいては、習慣における「上昇」運動は、現実の多様性を一つの観念に統一する総合化の過程であり、それが科学を形成すると考えられる。ところが、現実においては、習慣の「下降」運動によって、精神は自然化され、物質は精神化される。そのことによって、「機械的な運命性」と「反省的な自由」との間に連続性が確立され、この両者の境界面において、知解能力を有った自動性と意志的努力から解放された傾向性が生まれるのである。
 今日までの一連のラヴェッソンについての記事を締めくくるにあたって、『習慣論』の結論部分の一節を引く。

L’histoire de l’Habitude représente le retour de la Liberté à la Nature, ou plutôt l’invasion du domaine de la liberté par la spontanéité naturelle (Ravaisson, op. cit., p. 158).

習慣の歴史は、自由の自然への復帰、或はむしろ、自然的自発性の、自由の領域への侵入、を示してゐる(野田又夫訳74頁)。