今週の火曜日に、「ちょっと頼むのが遅いのだけれども」と断りながら、日本学科の同僚が、十月三十日から十一月一日までの三日間アルザス欧州日本学研究所(CEEJA)で開催されるシンポジウムに参加するつもりはないかとメールで打診してきた。メールには日英仏の三ヶ国語のプログラムが添付されていて、それを見ると、シンポジウムの日本語のタイトルは、「〈日本意識〉の未来 ― グローバリゼーションと〈日本意識〉」、文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業採択「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討 ―〈日本意識〉の過去・現在・未来」の一環として行われるプログラムだということがわかる。参加者は、日仏独奥露の十名の研究者たちで、その分野も様々である。シンポジウムの基本的趣旨は、現在の日本が世界の中で置かれている緊迫した危機的とも言える状況を様々な角度から分析し、それを踏まえた上で、これからの日本が国際社会の中で取るべきスタンスと進むべき方向性を探るということのようである。
私は、普段、自分から進んで学会に参加するということはまずしない。そんなことしても、ただ無闇に忙しくなるばかりで、じっくりと自分の本来の研究ができなくなると考えているからだ。しかし、信頼できる人たちからのシンポジウム参加依頼はまず断らない。ほとんど二つ返事で引き受ける。それは、まず、めったにそういう依頼は来ないからであり、それでも私に声をかけてくれる人たちは、それなりに私を正当に評価してくれているか、よほど困って私のところに話を持ってきたのであろうから、その期待に答えるのが彼らの信頼への応答となると考えるからである。発表内容も、だから、主催者の意向に沿って考えるのを原則とする。
しかし、今回即座に引き受けたのは、それだけの理由によるわけではない。それとは別に、そしてそれ以上に、自分の研究を一歩前進させるためのよい機会にもなり得ると判断したのが理由であった。というのは、ちょうど一年前の昨年九月末やはり同じアルザス・欧州日本学研究所で田辺元の「種の論理」について初めての発表をして以来(九月十一日以降の一連の記事参照)、同年十一月上旬のパリでの国際ベルクソン学会での発表(十月十四日からの一連の記事参照)、同月下旬のイナルコでの発表(十一月二十三日の記事参照)、今年夏の東京での集中講義(八月二日の記事参照)などを通じて、私の現在の研究の一つの主要なテーマとなってきているのは、田辺元の「種の論理」を批判的に検討しつつ、そこから新しい可塑的社会構築の基礎理論の一つの礎石を切り出すことだからである。今回のシンポジウムでの発表では、主催者の意向に沿って、「〈日本意識〉の未来」という観点から、「種の論理」を読み直すつもりでいる。発表のタイトルは、「新しい可塑的社会構築の基礎理論としての〈種〉の論理」としたが、それについて主催者からの承認も得た。
このテーマを選んだのには、さらにもう一つ理由がある。というのは、この発表は、昨日の記事の最後に述べた、学生たちに昨日の講義の終わりに投げかけた問いに対する答えの一つを提出しようという試みでもあるのだ。つまり、彼らへの問いかけは、実は私自身への問いかけでもあったのである。
今日のところは、一言だけ、素描的に、その問いへの答えのための仮説を示すにとどめ、これから発表までの一ヶ月余りの間、その仮説に基づいて、答えを発展・深化させることを自分の研究課題とする。
〈和〉も〈寛容〉も、原理としてそれ自体を絶対化すると、その基準を逸脱・超過し敵対するものを排除しようとすることによって自己破壊に陥るというアポリアを孕んでいる。その解決策の一つとして考えられるのは、和の集合に可塑的な階層性と開放性を導入し、いつでも低次での〈異物〉を一段高次な集合の中に回収することができるように、多層的自己組織化を更新し続けることができるような概念装置をそこに組み込むことである。より一般的に言えば、ある基礎概念が自己絶対化するときにどうしても引き起こさざるを得ない論理的アポリアを回避する実践的論理をいかに形成するかという問題である。この問題を解く一つの鍵が「絶対媒介の弁証法」と相即であるかぎりにおいての「種の論理」に見出されるというのが差し当たりの私の仮説である。