内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「見ゆ」の世界の衰亡 ― 呪術性の衰退と修辞性の台頭

2014-09-30 19:49:06 | 講義の余白から

 今日の修士の演習のテーマは、先週まで見てきた古代文学における「見ゆ」の世界がなぜ『古今集』以後急速に衰退し、以後の日本文学史に二度と再び現れることがないのかという問題であった。この問題は、佐竹昭広の『萬葉集抜書』には提起されているだけで、それに対する十分に説得的な解答は示されていない。「存在を視覚によって把握する古代的思考の後退」というだけでは答えになっていないであろう。家永三郎の『日本思想史における宗教的自然観の展開』では、そもそもこのような問題が立てられていない。万葉集に多数見られる「見れど飽かぬかも」という表現を「平凡ではあるが率直な言葉」(『家永三郎集』第一巻八三頁)としか見ないかぎり、それは当然の結果であると言えるだろう。
 上記の問いに答えるためには、九月七日の記事でも引用した、白川静の『初期万葉論』の次の一節がやはり手がかりになると思われる。

古代においては、「見る」という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。国しぬびや魂振りには、ただ「見る」「見ゆ」というのみで、その呪的な意味を示すことができた。『万葉』には末句を「見ゆ」と詠みきった歌が多いが、それらはおおむね魂振りの意味をもつ呪歌とみてよい(一五四頁)。

 もしこのように見てよいのなら、「見ゆ」の衰退は、自然との呪術的交感の衰退ということに他ならず、そのことが『古今集』以降の和歌に、単に表現としての「見ゆ」の不在というだけではなくて、別の形でも現れているはずである。
 その例示として、家永三郎の当該の本に挙げられている次の三つの歌を見てみよう。

このさとにたびねしすべし桜花ちりのまがひにいへぢ忘れて(古今集・春下)
いつまでか野べに心のあくがれむ花しちらずは千世もへぬべし(同)
深く思ふ事しかなはばこむ世にも花見る身とやならむとすらむ(千載集・雑中)

 これらの歌に見られるのは、修辞性への傾斜である。花への愛着を詠むのに、執着度を誇張する表現を意図的に用いており、そこに歌としての工夫が見られるとも言えるが、もはや「見ゆ」あるいは「見れど飽かぬ」という定型表現とともに生きられていた自然との呪的交感は失われていると言ってよいだろう。
 しかし、このような修辞性・技巧性を伴いはじめた自然への愛の表現を、その徹底性によって純化していく歌人が現れる。それが西行である。
 西行については、また機会を改めてゆっくり鑑賞したいと思う。今日はこれから明日の中世文学史の準備にとりかかる。先週説明し残した部分をまず終えてから、『百人一首』と『金槐和歌集』について主に話す。