今日は久しぶりに朝から気持ちのよい青空が広がった。隣家に生い茂る木々の木の間越しに朝日が書斎に射し込み、光の斑模様を本の背表紙に揺らめかせる。小鳥の囀りの他は何も物音がしない静かな朝。ゆっくりと朝食を取った後、九時半頃プールに行った。土曜日なのにそんなに混んでいなくて、午前の光を浴びながら快適に泳ぐことができた。一時間泳いで上がろうとシャワー室に向かうと、これから入ってくる家族連れに何組も出会った。ちょうどいいタイミングだった。
午後からは来週からの講義の準備を始めるつもりでいたが、高校時代からの悪い癖(もう直らないであろう)で、試験準備など間近に迫った義務的な仕事があると、それには直接関係ない本が読みたくなるのである。今日は予定としては、火曜日の修士二年の演習の基礎テキストである家永三郎の『日本思想史における宗教的自然観の展開』を読み直すことになっていたのであるが、第一回目については話すことは大体もう頭に入っているし、序論的な部分では学生たちの反応を見ながら話題を展開するつもりでいるから、そんなに入念に準備しなくても大丈夫だろうという教師にあるまじき安易な考えも手伝い、今月に入ってから二回このブログの記事でも取り上げた « L’émergence » という論文を読み直しているうちに三時を過ぎてしまった。
「これはいかん」と本をパタンと閉じて、すくっと立ち上がったが、それは講義の準備に取り掛かるために本棚に並んでいる家永三郎集第一巻を取るためではなく、「こういう時は気分一新したほうがいい」と独り言ちて、かねてより気になっていた汚れを落とすべくベランダの掃除を始めたのである。これも私にはよくあるパターンである。
掃除をしている間は、何も「いかに汚れを落とすか」と真剣に考えているわけではなく、体は動かしながら、頭では講義のことをちゃんと考えているのである。むしろ机に向かってばかりいるよりもいいアイデアが浮かぶことも少なくない。論文を書いているときにも、同じような行動パターンが観察される。机というかパソコンに向かっているときより、掃除しているときの方が、頭が冴えることさえあるのである。ちなみに、食器洗いについても同様なことが言える。つまり、いずれの場合も一石二鳥なのである。家や食器は綺麗になるし、講義の準備あるいは論文も捗るからである。
かくして今日も掃除を終え、こうしてパソコンに向かって「充実した」今日一日を振り返っているのである。後は、好きな音楽を聞き、ワイングラスを傾けながら、夕食を取るだけである…が、やはり講義のことが心配になってきたので、明日日曜日は頑張ることにする。