内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

石根木立青水沫も事問う「迦微」に満ちた国

2014-09-16 18:43:03 | 講義の余白から

 今日の修士二年の演習では、家永三郎の『日本思想史に於ける宗教的自然観の展開』を先週から読み始めたわけであるが、テキストの読解は遅々として進まない。先週は予習なしの初見のテキストであったし、最初の段落で問題提起、問題領域の限定、思想史の方法論など序論的なことが述べられている箇所だから、それらの解説に時間がかかったのは致し方ないとして、今日は二時間かけて第一節の最初の六行を読んだだけであった。どうしてそういうことになるのか。それは学生たちにとってのテキストの語彙的・構文的難しさということもあるのだが、ただの仏訳ということであれば十分もあれば足りるところを私の説明があちこちに広がってしまい、なかなか収拾がつかないのが主な原因であると認めなくてはならない。
 今日読んだ箇所の二行目(『家永三郎集』第一巻、八一頁)に「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこのかむのよごと)からの引用「石根木立青水沫も事問」があるのだが、この一言に込められた自然に対する日本の古代人の宗教的感情を説明するために約一時間を要した。この「神賀詞」は、出雲国造が新任の時,出雲の神々を一年間潔斎して祭り,その神々の祝いの言葉を朝廷に出て奏上するとともに臣従を誓う時の祝詞であるわけだが、単にその同時代の同様な表現の例に言及するだけでなく、なぜか脳科学の見地からの日本人の脳の話から、日本語による知覚世界の把握の特性へと話が移り、さらには井筒俊彦における世界の分節化原理としての〈コトバ〉論にまで話が及び、なかなかテキストに帰れないのである。時計を見れば、授業開始からすでに一時間十五分経過している。「これはいかん」気づいてテキストに戻り、学生たちに三行読んで訳してもらったが、そこに「迦微」(カミ)という言葉が出てくる。ここでは、予め学生たちに送付しておいた本居宣長の『古事記伝 神代一之巻』の「神」の説明箇所を一緒に読みつつ、宣長の説明による「神」が、いかに西欧の神と異なり、それがどれほど異なった宗教的世界像をもたらすかという大きな話になり、『もののけ姫』の話も出たし(って私がしたんですが)、なぜ日本にキリスト教は根付かないかという問題にも触れたところで、時間切れである。
 来週こそは、古代人における「見ゆ」の世界というテーマに入らなくてはいけない。