その精緻なアウグスティヌス研究と膨大・緻密・澄明なトマス・アクィナス研究とによって日本の中世哲学研究に比類なき大聖堂のごとき業績を残された山田晶の編集・訳による『世界の名著〈続5〉 トマス・アクィナス』(中央公論社、1975年)をこの夏の一時帰国の際にやっと買い戻した。
二十二年前、渡仏する前に大方の蔵書を売り払ったときにこの本も売ってしまい、後で大変後悔した。その後、帰国の度に神保町の古本屋街で探したが、同シリーズの他の諸巻は叩き売りに近い安値で店頭に並んでいるのに、この巻だけは見つからなかった。それが今回、その同じ神保町で、状態のいい古本をたったの二百円で購入することができた。
本書は、トマス・アクィナス『神学大全』第一部の抄訳だが、その厳密な訳と懇切丁寧詳細な訳注は今日の専門家たちにとってもなお貴重なものであるという。訳と訳注は、中公バックス(1980年)として再刊され、2014年には新書版の中公クラシックスとしてニ分冊で再刊され、簡単に入手できるようになった。だから、世界の名著版が古本市場に出回るようになり、しかもこんな安値がつくようになったわけだ。
では、なぜ初版である世界の名著版にこだわったかというと、それは初版だからでもなく、安かったからでもなく、その付録の月報のためである。このわずか12頁の付録には、昭和五十年五月十二日に行われた山田晶と上山春平の対談が掲載されていて、その中に「トマスと道元」と題された節があり、そこで上山の質問に答える形で山田はトマスと道元の類似点を列挙している。その山田の答えを全文引用する。
道元は一二〇〇年(正治二年)、トマスは、一二二五年に生まれていますから、トマスのほうが二十五年後ですが、二人はだいたい時を同じくして東西に生きていたわけです。トマスは、領主の子供で、道元は公家の出身です。トマスは六歳で、モンテ・カシノの修道院にあずけられました。トマスの両親はこの秀才をモンテ・カシノにあずけて、のちには大修道院の院長にするつもりだったかもしれません。道元も十三歳で出家して、叡山に登っています。叡山はちょうどその当時の西洋のベネディクト会に当たります。それは学問と修行の中心地であると同時に、大きな現実的社会的勢力でもあったのです。もしも道元が叡山にとどまったならば、その門地から言っても才能から言っても、天台座主になったかもしれません。事実、『愚管抄』の著者として知られる天台座主の慈鎮は、道元のごく近い親戚なのです。
しかし道元は叡山にあきたらず山を下り、栄西や明全の禅宗に身を投じます。同じようにトマスも、ベネディクト会にあきたらず、ドミニコ会に身を投じます。ドミニコ会もフランシスコ会も、当時は創立されて間もないころで、活気に満ちあふれていたと思われます。トマスはアルベルトゥス・マグヌスという当時の最大の学者を師とします。トマスはイタリア人、アルベルトゥスはドイツ人です。同様に道元は、天童如浄を正師とします。如浄はもちろん中国の人です。このように民族や国籍の別を超えて師と弟子とが深く結ばれる点も似ています。
両人ともに、比較的若く世を去っている点も似ています。トマスは四十九歳、道元は五十三歳です。臨終のさまも、よく似ています。道元は死期の近づいたのを感じると、『正法眼蔵』の最後の巻「八大人覚」を書いて衆に示します。そして長年住みなれた越前の永平寺を去って京都にもどり、そこで死ぬのです。「法華経」を誦しながら死んだと言われます。トマスも、晩年にイタリアにもどります。そして死期が近づいたとき、『雅歌』の註解をし、ベネディクト会の修道院で死ぬのです。どちらも詩人であった点もよく似ています。
もう何十年も前に最初に読んだときに強く印象づけられた一節である。トマスと道元との間に思想内容において類似点があるわけではない。しかし、西洋と東洋の中世がそれぞれに十三世紀に生んだ最も偉大な思想家であること、どちらも伝統的教学に習熟した後にそれを抛ち、それを超え、革新的な思想体系を建立したこと、それが今日もなお汲み尽くせぬ思想の源泉であることなど、単なる偶然の一致と言って済ませることのできない歴史的必然性のようなものを両者の類似点の中に私は感じないではいられない。