内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

未来なき「無気味な静けさ」の中で、この一瞬の勉強に全生命をかける ― 山田晶の言葉①

2018-09-03 01:53:18 | 哲学

 山田晶は大正十一年(1922年)生まれ。昭和十七年(1942年)に京都帝国大学文学部哲学科に入学。翌昭和十八年十二月、学徒出陣で海軍に入隊する。その翌年昭和十九年、戦時特例により卒業。「私は、不思議に命ながらえて故郷に戻ってきたが、出征中に戦時特例によって、論文も出さずに大学を卒業していた。私は、パウロのことばを真似るならば、「月足らずに生まれた学士であって、学士の名に値しない者」であった」(「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」、『世界の名著 トマス・アクィナス』、9頁)。京大入学から出征までの短い学生生活を振り返って、山田は次のように当時を回顧している。

 私は先に、当時の京大は静かであったといった。しかしその静けさは、平和の静けさではなく無為の静けさでもなかった。それは無気味な静けさだった。海や陸では死闘がくりひろげられ、多くの人々が血を流していた。自分たちは大学生の特典で兵役を延期されていたが、いつ兵役にとられるかわからなかった。
 そういう状態で勉強できるこの時間は、まことに貴重だった。未来に希望がなかったから、いまこの一瞬の勉強に、全生命をかけた。私の心はまさに「暗い中世」だったのだ。暗さのなかに、一条の光明をもとめていたのだ。しかしこの現実から逃げようとは思わなかった。許されるあいだ勉強しよう。征く日がきたらいさぎよく征こうと思っていた。その日は思いがけず早く来たが、残念とは思わなかった。私はそれまでつづけてきた研究ノートに「生きてかえれたらまたつづけよう」と書いた。何の未練もなかった。(「教父アウグスティヌスと『告白』」、『世界の名著 アウグスティヌス』、9頁)

 戦時にあってのこのような潔さを美化するつもりは毛頭ないが、勉強しようと思えばいくらでもできる平和で「明るい」時代に生きている私たちは、かえってこの一瞬の価値がわからなくなってしまっているのではないかと自問せざるをえない。偽りの明るさの中で人の世の現実の本来的な暗さが見えなくなり、一条の光明をもとめることもなくして、いったいどこへ行こうとしているのだろうか。