内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カイロスとクロノス(9)― 迫り来る世界の終末と黙示録的永遠性との間に介入する救済のカイロス

2018-09-23 17:00:43 | 哲学

 使徒がそれからはっきりと区別されなくてはならないもう一つの形象としてアガンベンが強調するのは、黙示録的幻視者である。
 両者の区別は、ちょうどメシア的時間と終末論的時間との区別に対応する。両者を混同することほど危険な誤解はない。それは使徒と預言者を混同することよりもさらに危うい罠だ。
 預言が未来に関与するのに対して、黙示録は時間の終焉を観想する。黙示録的言説は最後の日、怒りの日に位置づけられる。それは終末の到来を見、その見るところを記述する。
 それに対して、使徒が見る時間は終末ではない。時の終わりではない。使徒が告げる救済論と黙示録が描き出す終末論との決定的な違いは、救済論が唱えるのは時の終わりではなく、「終わりの時」であるところにある。
 使徒が関心を持つのは、最後の日、時間が終わる瞬間ではなく、縮約され「終わり始めている」時間である。言い換えれば、時間とその終焉との間の時間である。
 古代ユダヤ教における伝統的な考えかたによれば、二つの世界、そしてそれぞれに対応する時間あるいは非時間的永遠性がある。一つは、創造された世界であり、世界の創造からその終わりまで持続する時間である。もう一つは、世界の終わりの後に到来する非時間な永遠なる世界である。
 これらの世界像・時間性はパウロ書簡にも見いだせるが、それらはパウロの主張したいことではない。パウロの関心の焦点は、世界とともに持続する時間にも黙示録的終末にもなく、両者の間にあって「残るもの」、両者の間に介入する時にある。
 もしアガンベンの主張をこのようにまとめてよいのなら、そこから次のような帰結が導かれる。
 この「残りの時」こそ、創造に始まり今や終わろうとしている世界の時間とその後の終末論的永遠性との間に介入してくるメシア的時間、つまり救済のカイロスである。