中二日のお休みをいただいて(って、勝手に「無断欠勤」しただけですが)、今日から連載「カイロスとクロノス」を再開させていただきます。
アガンベンが『残りの時』「第四日目」で、水平方向の直線(そしてその最終的一点においての多方向への分散)という図式を使って、世俗的時間、メシア的時間、そして終末論的時間(あるいは時間の終焉後の永遠性)を表象しようと試みているところを途中まで読んだ。その続きを読もう。
この水平方向の実線・点線そしてその一方の先端点からの線分の多方向への分散という図式化には、世俗的時間・メシア的時間・終末論的永遠性の三者の区別と関係を明瞭化する利点がある一方、メシア的時間の他の二者からの異質性を十分には表象できないという難点があるとアガンベンは言う。
そこでアガンベンは、水平方向の一直線で表された世俗的時間(実線)と終末論的時間(点線)との間に二本の点線の垂線で区切りを入れ、その二本の垂線で区切られた水平方向の線分を中点で左右に分け、左側の世俗的時間側を実線、右側の終末論的時間側を点線で示し、その中点に実線で短い垂線を入れた図式を示す。
左側の点線の垂線は、世俗的時間とメシア的時間の区切りを意味し、メシア的時間がクロノスとしての世俗的時間からの超過であることを示している。右側の点線の垂線は、終末論的永遠性とメシア的時間の区切りを意味し、メシア的時間がいまだ到来していない未来の永遠性からの超脱であること示している。世俗的時間の超過部分と終末論的永遠性からの超脱部分の分岐点は短い実線の垂線との交点でもあるが、その交点が「終末 eschaton」に相当する。
この第二の図式化でメシア的時間が終末論的時間と質的に異なることが第一図式よりは明瞭になったとは言えるかも知れない。メシア的時間とは、世俗的時間でもなく、終末論的永遠性でもない「残りの時」なのだということは、この第二図式によってよりわかりやすくなったことは認めてもよい。しかし、いくらかましになったという相対的な違いの域を出るものではなく、依然釈然としないところが残るのはいかんともしがたい。
終末点を通過する垂直の実線は何を意味するのか。これがメシア的時間なのか。