内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カイロスとクロノス(2)― パウロ書簡に見られる両者の区別と関係

2018-09-16 18:52:37 | 哲学

 『新約聖書』「ガラテアの信徒への手紙」第四章第四節は、新共同訳では、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」、岩波文庫版文語訳では、「然れど時満つるに及びては、神その御子を遣し、これを女より生まれしめ、律法の下に生れしめ給へり」となっている。エルサレム版仏訳は、« Mais quand vint la plénitude du temps, Dieu envoya son Fils, né d’une femme, né sujet de la Loi »、Nestle-Aland 版英訳は、« But when the time had fully come, God sent forth his Son, born of women, born under the low »、同じくラテン語版は、« at ubi venit plenitudo temporis, misit Deus Filium suum, factumu ex muliere, factum sub lege » となっている。そして肝心のギリシア語本文は、« ὅτε δὲ ἦλθεν τὸ πλήρωμα τοῦ χρόνου ἐξαπέστειλεν ὁ θεὸς τὸν υἱὸν αὐτοῦ γενόμενον ἐκ γυναικός γενόμενον ὑπὸ νόμον » である。ギリシア語本文の「クロノス χρόνος」は、新共同訳でも文語訳でも「時」と訳され、仏訳は « temps »、英訳は « time »、ラテン語は « tempus » となっている。
 ところが、同じく新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」第一章第十節「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」と、ここにも「時が満ちる」という表現が出てくるのだが、ギリシア語本文は、« εἰς οἰκονομίαν τοῦ πληρώματος τῶν καιρῶν ἀνακεφαλαιώσασθαι τὰ πάντα ἐν τῷ Χριστῷ τὰ ἐπὶ τοῖς οὐρανοῖς καὶ τὰ ἐπὶ τῆς γῆς ἐν αὐτῷ » となっており、「時」と訳されているのは、「クロノス」ではなく、「カイロス καιρός」なのだ。この点については、英訳にも同じ問題があり、どちらにも « time » が訳語として使われている。
 ラテン語訳では、「クロノス」には、tempus の属格単数形 tomporis が使われているのに対して、「カイロス」には、属格複数形 tomporum が使われている。仏訳でも同様で、前者は単数、後者は複数になっている。どちらの場合も、ギリシア語本文で属格の単数形と複数形とがそれぞれクロノスとカイロスとで使い分けられているところまでは忠実に反映している。ただそれぞれに別の語を充ててはいない。
 これは単に文法や語彙の問題ではない。クロノスとカイロスとの区別と関係をどう考えるかは、神学的あるいは哲学的に決定的に重要な問題の一つなのである。
 実際、パウロ神学におけるこのクロノスとカイロスとの区別と関係という問題は、少なからぬ西欧の神学者や哲学者たちがこれまで論じてきている。それらの議論のうちからいくつかを取り上げ、それらの論点との交叉点に西田哲学の「開口部」を探そうとしている小林敏明氏の『西田哲学を開く 〈永遠の今〉をめぐって』(岩波現代文庫、2013年)第6章「現在」を導きとして、私たちもこの問題を考えてみよう。