昨日の記事で読んだ箇所についてのこちらの側の釈然としない気持ちにまさに応ずるかのような形で、アガンベンは問題を振り出しに戻すようにこう問い直す。
これで私たちは時間のメシア的経験をほんとうに理解したと言うことができるのだろうか。ここには、時間の諸表象に関して、それらがすべて空間的であることに由来する一般的な問題がある。しばしば見受けることだが、点・線・切片などの空間的表象は、時間の生きられた経験を思考不可能にする変質を引き起こしてしまう。終末とメシア的時間との間の混乱はまさにその明白な例の一つだ。
時間を一直線で表わし、その終わりを一点で示せる瞬間のように表象するとき、完全に表象可能な何ものかを私たちは得る。ところが、それは同時にまったく思考不可能な何ものかでもある。反対に、時間の現実の経験について考えるとき、確かに何かを考えてはいるわけだが、それはまたまったく表象不可能な何かでもある。
メシア的時間を二つの世界の間に位置づけられる切片とする表象はいかにも明瞭なものだが、しかし、この表象は、残る時間の経験、終わり始めた時間の経験について何ごとも語らない。
どこからこの乖離、つまり表象と思考との乖離、イメージと経験との乖離が来るのか。このような乖離を引き起こさない別の表象を考えることができるのだろうか。
このように、時間の経験に関する一般的な問題にまで私たちは立ち戻らされてしまう。
だが、何らかの明瞭な表象を前にして何も考えられないということがあるだろうか。そもそもまったく表象不可能な何かを思考することなどできるのだろうか。経験と表象との区別と関係を捉えることこそが思考の働きではないのだろうか。
これらの問いは差し当たり保留にして、いましばらくアガンベンの『残りの時』の論旨を追っていこう。