内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「狂言綺語」小考(三)―『沙石集』における愚人教化のストラテジー、あるいは縁としての「あだなる戯れ」について

2018-09-08 13:30:16 | 読游摘録

 「狂言綺語のあだなる戯れ」を仏讃仰への機縁として「愚かなる人」たちを教化しようという「戦略」は、無住の『沙石集』において積極的に展開される(無住の『聖財集』における始覚思想に見られるプラグマティズムについては、拙ブログ 2018年5月1日の記事 で取り上げた)。
 第一「神儀」冒頭の一節は『沙石集』全体の序文である。その中で「狂言綺語」という語が使われている。

 それ麁言軟語みな第一義に帰し、治生産業しかしながら、実相にそむかず。然れば狂言綺語のあだなる戯を縁として、仏乗の妙なる道を知らしめ、世間浅近の賤きことを譬として、勝義の深き理に入れしめむと思ふ。(『新編 日本古典文学全集』小学館、二〇〇一年、一九頁)

 そもそも、粗野なものであれ穏和なものであれ、言葉というものは皆、仏法という最上の真理に帰一し、この世の事はすべて真理に矛盾しない。したがって、私は虚偽虚飾の言葉の空しい戯れを縁として、人々に仏道の精妙な道理を知らしめ、世間の卑近な事柄を喩えとして、仏道のすぐれた深遠な道理に導き入れようと思う。(同頁)

 Langage grossier et mots élégants reviennent tous deux au principe primordial ; et travailler aux préoccupations quotidiennes de la vie n’est nullement en contradition avec l’ultime réalité. C’est pourquoi je pense mener les êtres sur la Voie merveilleuse du bouddhisme, en me servant de plaisanteries futiles en ‘mots fous’ et ‘langage raffiné’ et leur enseigner le principe profond de la vérité absolue en prenant pour exemple les trivialités des choses banales de ce bas monde (Collection de sable et de pierres, traduit du japonais par Harmut O. Rotermund, Gallimard, « Connaissance de l’Orient », 1979, p. 41).

 この一節について、ドナルド・キーンは『日本文学史 古代・中世篇四』(土屋政雄訳、中公文庫、二〇一三年)で、「ルクレチウスの譬えを借りるなら、ニガヨモギを入れたカップの縁に塗る蜂蜜が「狂言綺語」といえよう」(二八二頁)と注している。
 序文のもう少し先の方で、無住は、「それ道に入る方便、一つにあらず。悟りを開く因縁、これ多し」と主張している。一見荒唐無稽で、仏教の教えとは何の関係もなさそうな話の中にも、そのような因縁はあるのだ、という確信が、無住に実に多様な万華鏡の如く色とりどりな説話を生き生きとした筆致で執筆させている。
 「「世間浅近ノ賤キ事」や「徒ラナル興言」をも教理の枠組の中でとらえ、「讃仏乗ノ縁」にしようという無際限なまでの現実の受容が、多くの笑話を仏教説話集の枠を破って収録させることになり」(同「解説」)、そのことが説話集としての『沙石集』の文学的価値を高めている。
 『沙石集』の編集方針に見られる無住のこの現実受容的態度は、鎌倉新仏教の創始者たちのそれと対照的である。「無住は偏執を否定するという側面から専修念仏に強く反対し、諸仏往生を説く」(『新編 日本古典文学全集』小学館、小島孝之による「解説」。六三〇頁)。中世仏教史を鎌倉新仏教を中心に据えてみる仏教史観において、無住の思想的態度は不当に軽視されてきたと言わなくてはならないだろう。他方、無住の始覚思想は、当時盛んだっった本覚思想にも対立する。
 『沙石集』は、説話集としてその文学的価値においてばかりでなく、始覚思想に裏づけられた世界観の表現としてその思想的価値においても評価されるべきだろう。