内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「狂言綺語」小考(一)― 『梁塵秘抄口伝集』のアクロバティックなレトリック、あるいは今様往生論について

2018-09-06 00:19:40 | 読游摘録

 「狂言綺語」という言葉は、『倭漢朗詠集』所引白氏文集中の「願以今生世俗文字之業狂言綺語之誤、翻為当来世世讃仏乗之因転法輪之縁」(願はくは今生世俗の文字の業、狂言綺語の誤ちを以て、転じて当来世世讃仏乗の因、転法輪の縁と為さん[この世で仏道に関係のない詩歌や文章にふけっていた罪を、来世において仏を讃嘆しそのありがたさを説き述べる機縁としたい])に見え、道理に合わない言葉と、巧みに飾った言葉のことである。特に、仏教・儒教の立場から、詩歌・小説や歌舞音曲を指す。この意味での「狂言綺語」は、仏の言葉である「実語」の反意語である。
 しかし、『梁塵秘抄』には、「狂言綺語の誤ちは 仏を讃むるを種として あらき言葉もいかなるも 第一義とかにぞ帰るなる」(法文歌・雑法文歌・二二二)とあり、これは、「でたらめの言葉、飾り立てた言葉で作った文学の営みは間違った行いではあるが、それも仏を讃嘆する機縁となし得る。荒々しい言葉もどんな言葉も、すべては仏法の絶対的真実に帰するということだよ」(植木朝子訳『梁塵秘抄』、ちくま学芸文庫、二〇一四年)ということであり、狂言綺語もまたこの世において仏道に参入する契機となりうると、積極的な価値が付与される。
 『梁塵秘抄口伝集』巻第十において、後白河院は次のようなアクロバティックな今様往生論を展開することで、民間に流布している俗謡をさらに積極的に擁護する。

 この今様を嗜み習ひて、秘蔵の心ふかし。さだめて輪廻業たらむか。
 我が身、五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。すでに半ばは過ぎにたり。今はよろづを抛げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。たとひまた、今様を歌ふとも、などか蓮台の迎へに与からざらむ。
 その故は、遊女のたぐひ、舟に乗りて波の上に浮び、流れに棹をさし、着物を飾り、色を好みて、人の愛念を好み、歌を歌ひても、よく聞かれんと思ふにより、外に他念なくて、罪に沈みて菩提の岸にいたらむことを知らず。それだに、一念の心おこしつれば往生しにけり。まして我らは、とこそおぼゆれ。法文の歌、聖教の文に離れたることなし。
 法華経八巻が軸々、光を放ち放ち、二十八品の一々の文字、金色の仏にまします。世俗文字の業、翻して讃仏乗の因、などか転法輪とならざらむ。(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』講談社学術文庫、二〇一〇年、電子書版二〇一七年)

 今様への執着が輪廻業にならないかと危惧しつつ、極楽往生は願っている。しかし、今様を捨てるつもりはない。なぜか。浮かれ遊んで往生の妨げになるようなことを散々した遊女たちでさえ、今様によって一心に仏に帰依する心を発すれば往生を遂げることができたからだ。まして私の場合は往生しないはずがない。法文の歌は仏典の教えの文言に離れたことはない。世俗文字の業は昇華して仏法を讃歎する契機となるのであるから、どうして今様が迷いを打破して往生へと導く転法輪とならないことがあろうか。
 今様に全心を捧げた後白河院にしてはじめて到達できた今様往生論と言うべきであろうか。