内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学はどこに現成するのか ― 山田晶の言葉②

2018-09-04 01:01:41 | 哲学

 山田晶の文章は、どこまでも明晰判明であろうとする意志に貫かれているが、それは暗く見透しがたい冥闇をその哲学的思考から排除しようとしてのことではない。

 私は世界のなかに、何か暗い見透しがたいものが存在することを実感していた。しかし暗い世界をそのまま肯定して、暗さのなかにどっぷりつかっている神秘主義は、なにか怠惰で、不潔なもののように思われた。これに対し、明るい世界だけに安住している合理主義は、何か軽佻で、これまた別の意味で怠惰であるように思われた。明晰判明な知をしっかりと把んで、それをともしびとしながら、暗い世界をいくらかでもあきらかにしようと、汗を流しながら努力していく、その過程のうちに「哲学」は現成するのであると信じていた。(「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」、『世界の名著 トマス・アクィナス』、10-11頁)

 暗さをそのまま肯定し暗さの中に浸りきっていることが神秘主義だとは私は思わない。だから、それだけを理由に神秘主義を嫌忌する山田には共感できない。しかし、他方、明るい世界だけに安住している合理主義の怠惰を突くところには共感を覚える。
 上田閑照は、『上田閑照集 第七巻 マイスター・エックハルト』(岩波書店、2001年)の「後語 解釈の葛藤の中で」で、西谷啓治『神と絶対無』と双璧をなす銀山鉄壁として、山田晶の巨大なトマス研究を挙げ、「山田はそのトマス研究に立って言う、何故に「有の立場」より「無の立場」の方が深いのか、その場合「深い」とは何を意味するか、もう一度批判の眼をもって検討する必要がある、と」(362頁)と述べ、山田のトマス研究が自身のエックハルト研究にとって「容易ならざる課題」を突きつけるものであることを認めると同時に、「深い励まし」を山田の研究から受け取っている。
 ありもしない虚妄の深みを思わせぶりにちらつかせるような徒に難解なだけの言説は当今もう流行らない。しかし、知的努力なしにわかるように説明されていないものをそれだけの理由で拒否することも精神の怠惰以外の何物でもないだろう。
 あたうかぎりの明晰判明さを探照灯として昏き世をいくらかでも照らす努力を生涯にわたって弛みなく続けた山田晶は、その不朽の業績によって哲学徒がつねにそうあるべき姿勢を身をもって示したと言えるだろう。