今日の記事もアガンベンの論述をただ淡々と摘録するにとどまる。
メシア的時間を私たちはどのように表象することができるのか。
一見ことは簡単そうである。まず、世俗的時間がある。この時間を問題にするとき、パウロは一般に chronos(クロノス)という言葉を使う。この時間は、天地創造から救世主到来という出来事(パウロにとって、これはイエスの誕生ではなく、その復活である)までを指す。この出来事の到来とともに、時間は縮約され、終わり始める。この縮約された時間をパウロは ho nun kairos (今の時)という表現によって指し示す。この時は、キリストの再臨、つまり救世主の十全なる現前まで続く。この現前が「怒りの日」(Dies Irae)であり、時間の終焉である。しかし、この終焉は、たとえそれが差し迫っているとしても、まだいつと決まっているわけではない。この終焉が差し迫る中、もう一つの世界つまり永遠性の中で時間は爆発、いやむしろ内破する。
これを簡単な直線図式として示すと、まず左端に天地創造A点があり、真ん中に救世主到来の出来事B点がある。A点からB点までの世俗的時間は実線によって示される。そして、B点から時間の終焉であるC点、つまり時間が永遠性へと移行する瞬間までは点線で示される。そしてC点から先は、それまでの一直線によって表象されていた時間が複数の方向に分散する。
この図式の利点は、一方では、点線で示されたB点からC点までの間つまりメシア的時間がC点以後の時の終わり・未来世界の到来とは一致しないこと、他方では、実線で示されたA点からB点までの世俗的時間とも異なること、しかし、世俗的時間に対して外的な非連続の関係にはないことを明瞭に示すことができるところにある。
ただ、この図式の難点は、点線で示されたメシア的時間がそこで発生している世俗的時間の縮約をそれとして示し得ていないところにある。