昨日の記事で紹介した『世界の名著 トマス・アクィナス』の巻頭には、その責任編集者・訳者である山田晶による七十頁ほどの解説文「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」が置かれている。その導入節「トマス・アクィナスと私」は、同じく『世界の名著 アウグスティヌス』(1968年)の山田晶による解説文「教父アウグスティヌスと『告白』」のやはり導入節である「アウグスティヌスと私」とともに、私にとって、何度読んでも感動する文章である。
どちらの文章も最初に読んだのは今から数十年前、最初の学部生の頃だっだ。どこまでも真摯に尽きることなき情熱と覚悟をもって、中世哲学研究に―さらにはもっと広く学問に―身を捧げるその生き方が虚飾を排した謙虚な文体で綴られたこれら二つの文章を読んで、学問の厳密さとそれが強いる永続的な忍耐と研鑽、それらを引き受けた者のみに恵まれる学問することの喜びが文面からひしひしと感じられ、まるで及びもつかないにせよ、自分もまた学問の道に進みたいという願望がそのとき私の中にも点火されたことを覚えている。
そのときから数十年も経っているのに、いまだなんらの学問的業績もない自分がほんとうに恥ずかしい。大聖堂の建設のために一人の無名の石工が日々営々と働き続けるように学問に勤しむことに憧れながら、その大聖堂の周りを風来坊のようにただほっつき歩いているうちに茫々と時は虚しく過ぎてしまった。いっそのことほんとうに無に等しい存在ならばまだしも、わずかばかりの欠片のような有にしがみつき、執着し、振り回され、そのために失ってしまったものの大きさに、今、心が押しひしがれようとしている。
今一度、学に志した初心に立ち返るよすがとして、明日からの三日間、山田晶の二つの解説文から特に心に残っている箇所を一箇所ずつ引用して、それに若干の感想を付す。