今日、学部三年の「近代日本の歴史と社会」の今年度最初の授業があった。今年で五回目の担当になる。毎年、使用テキストの一部を入れ替え、説明内容を修正あるいは変更しているが、ここ三年は主な部分に変更はない。
しかし、学生たちからの反応は年によって違う。一昨年度は主に遠隔で行わざるを得なかったにもかかわらず、学生たちの反応はもっとも活発だった。一年生のときから担当したすべての教員たちから評価の高かった学年だったが、特に授業中によく質問してくる学生が何人かいて、それらの質問が授業を活性化してくれた。
それに反して、昨年度は、一年を通じて教室での対面授業であったにもかかわらず、授業中の質問はほぼ皆無であった。こちらから問いかけても反応が乏しかった。試験の出来が悪いというわけではなかったが、そもそも内容にあまり関心がないようであった。コロナ禍以前も年によってクラスの雰囲気は違ってはいたが、昨年度は、私にとってはストラスブール着任以来最悪の一年だった。
今年はどうか。学生たちは月曜日の授業と同じ顔ぶれ。月曜日の記事に書いたように、日本学科史上最多の学生数で今日の出席者は三十七名。教室定員は五十名だから満席ではないが、空席は後方にしかなかった。これはすでに「吉兆」である。年によっては最前列に空席が目立つ。月曜日も感じたことだが、全体として集中度が高い。ノートをよく取っている学生も多い。最前列でただ腕を組んで聴いている学生も一人いたが。
例年通り、初回は歴史哲学講義である。歴史とは何かという問いに正面から向き合う。昨年までに比べて、読むテキストの分量は大幅に絞り込み、一時間十分でまとめた。引用したのはすべて仏語のテキストである。ヴァレリー、レヴィ=ストロース、ジャン・スタロバンスキー、Rémi Brague、Pierre Vesperini、Henri-Irénée Marrou、Paul Veyne、Jacques Le Goff 等。
五分ほど休憩を入れて、残り四十分あまりで日本語のテキストを一つ読んだ。『大学でまなぶ日本の歴史』(吉川弘文館、二〇一六年)の序文にあたる「オリエンテーション」の中の「歴史の学び方」と題されたおよそ一一〇〇字あまりの節である。とても良い文章だと思う。