授業のテーマがなんであれ、教室で読む日本語のテキストに対して取りうる四つのアプローチを学生たちには授業中に説明する。
第一は、昨日の記事で話題にしたように、音読である。
これはさらに四つのタイプあるいは段階に分かれる。
まず素読。内容の理解を捨象して、音と文字の形という感性的側面に注意を集中する。正しくきれいに読むことが大切だ。そのためにはどうしてもお手本が必要だ。この段階でいくら自己流に読んでもあまり意味はない。むしろ逆効果だ。発音、響き、抑揚、リズム、速度(緩急も含む)をお手本にしたがって身につけることが肝要だ。
次に解読。これは素読の次の段階というよりも、素読を繰り返しているうちに自ずと漸進的に実行される。どういうことか。素読を一定期間繰り返している間に身につける単語や文法が音読の質を高めてくれるということである。
そして味読。文字通り、テキストのテイストを味わうことだ。美味しい料理や美酒を味わうときと同じように、これは心身に快楽・喜悦をもたらす。
最後に朗読。テキストを聴き手に向かって表現することだ。視覚的テキストを肉声によって聴覚的に受肉させることだ。いや、テキストの受肉と端的に言ったほうがよい。テキストのコミュニオンとも言える。
第二は、文法的分析。一字一句徹底的に解析し、言語的な機能の理解に努める。ただし、私の受け持っている科目は語学の授業ではないので、これを実際に教室で行うことは稀である。
第三は、網読(もうどく)。これは私の造語である。間テキスト読みということである。一つのテキストはそれだけで成立しているということはまずない。同じ筆者の他のテキストばかりでなく、同時代の他の書き手のテキスト、筆者が前提、参照、依拠などしているテキスト、さらには当該のテキストが書かれたときの諸条件などとの関連において一つのテキストは成り立っている。それらが構成するネットワークの中に位置づけて一つのテキストを読むことが網読である。
第四は、運用。テキストに用いられている表現を自分で使うことである。これには四つのレベルがある。単語、句、文、論理構成の四レベルである。授業では特に第四レベルに学生の注意を促す。意味内容を一旦括弧に入れ、論理構成の要素を文章から抽出する。それらの要素を使って自ら論理的な文章を書く練習をする。
一つの文章に対してこれら四つのアプローチが完遂されたとき、その文章は「血肉化」される。授業では四百字程度のテキストに対してそれぞれのアプローチの見本をちらっと見せる程度のことしかできない。後は学生たちが自ら実践するかどうかにかかっている。